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山崎城/京都府大山崎町

山崎城は、交通の要衝を押さえる天王山にありました。
訪問日は2022年7月31日です。

【210】山崎城

流石は「天王山」だけあって、登山口はとても広々としています。
舗装道もありますが、駐車場はお寺の参拝者専用しかありません。
踏切手前のコインパーキングなら、何の不安も無く停められます。
この坂を車で登っても、距離はたいして稼げません。

【217】山崎城
突き当りは宝積寺

そんな緩い舗装道を登り切った所は、お寺で行き止まり???
麓には確かに「天王山登山口」と、立派な石碑までありましたが・・・

【218】山崎城
登山道の案内

そんな不安を抱く人が多いのか、目立つ所に案内があります。
実はこのお寺も、往時は城の一部だったとWikipediaには書かれています。
登ってみればわかりますが、山城とは言っても傾斜は緩いです。
山頂から麓にかけて、要所要所に陣を構える構造だったようです。

【219】山崎城
登山道 奥の案内図を表示

宝積寺の脇を抜けると、ここからは本格的な山道となります。
とは言え、私が普段訪ねるような山城跡とは雲泥の差です。
これはもう、家族向けハイキングコース程度に整備されています。

【222】山崎城
青木葉谷展望広場

緩い傾斜の山道沿いの、所々にこんな感じの平坦地があります。
展望広場ではありますが、あまり期待はしないで下さいw
やはりここも、山崎城防衛の一端を担った場所なのだと思います。

【226】山崎城

奥には、豊臣秀吉に関する絵画と山崎合戦に関する説明が書かれています。
こんなオブジェが、そこかしこにあります。
まぁ、豊臣秀吉が天下取りの第一歩を刻んだ場所ですからねー

【237】山崎城
酒解神社の鳥居

程なく、大きな鳥居が現れました。
そこには「酒解神社」と書かれています。
某大御所様の図では、城跡のすぐ近くに描かれています。
着いたヾ(*´∀`*)ノと喜びましたが、なかなか社殿は現れず・・・

【237-2】山崎城

この鳥居の位置をGPSの軌跡と重ねると、緑○の場所になります。
宝積寺と酒解神社の間の真ん中よりちょっとだけ進んだ所でした。
ヌカでしたw

【238】山崎城
旗立松の説明板

鳥居の右脇に、これがあります。
何の旗を立てたかというと、羽柴秀吉軍のだそうです。
山崎合戦の時に、ここに旗を立てて羽柴軍を鼓舞したそうです。
・・・伝承の域を出ないそうですが。

【241】山崎城
山崎合戦の石碑と説明板 説明板を表示

さらに目立たない木陰に、これらがあります。
説明板には、山崎合戦の経過が細かく書かれています。

【244】山崎城
羽柴秀吉の絵図

この山道を登っていると、そこかしこにこいつらが現れます。
秀吉ファンには堪らないのでしょうけど、何枚もあると・・・

【254】山崎城
十七烈士の墓

さらに登ると、今度は十七烈士の墓があります。
十七烈士とは、ここで自害した幕末の長州藩士達です。
1864年、禁門の変に敗れた真木保臣は、天王山へ逃れます。
ここで郡山藩兵や新選組と一戦交え、火薬に点火し爆死しました。
明治維新が成った後、彼らの行動が見直され顕彰されたそうです。

【261】山崎城
三社宮

平地が次から次に現れますが、だんだん建物が増えてきました。
ここは厳島社と三社宮です。
左の建物の中に、小さなお宮が3つ並んでいます。

【268】山崎城
酒解神社

そのすぐ先に、フェンスで囲まれたオーラ漂う建物があります。
「自玉手祭酒解神社神輿庫」の立て札に「鎌倉時代の建築(中期)」と。
城だとギリギリ戦国時代で貴重ですが、やはり神社仏閣は凄いです。
酒解神社ということは、城の主要部までもうすぐですヾ(*´∀`*)ノ

【位置】山崎城
別ウィンドウで表示

ここでようやくいつもの軌跡登場です。
上でチラっと載せましたが、全体だとどこがどこだか?ですからあせる
地図上でも、城跡は山頂にあることがわかります。
主郭は5~10、13で、西側に一段低い曲輪があります。
また、東側から少し北にも曲輪があり、手前に堀切があります。
歩いてみるとどうみても城の正面は南東ですが・・・
遺構的には北側の方が造りが厳重な気がします。

【1】山崎城
【1】分岐

酒解神社を過ぎると、いよいよ天王山山頂の案内が現れます。
一般ピープルにとっては、案内の指す左の道こそがゴールですが・・・
城キチピープルは、いきなりそっちに行ってはイケマセン。
まずは右側へ寄り道しましょう♪

【2】山崎城
【2】土塁

まず目に付くのは、左側の土塁です。
なんか段々高くなったなぁーという感じで現れます。

【3】山崎城
【3】北側の曲輪

すると、土塁の先にまとまった平坦地が現れます。
この平坦地は竹で囲まれていて、中に入りづらいです。
人の手でそうしてあるので、わざわざ入りませんでした。

【4】山崎城
【4】堀切

そして、歩いていて見えづらいですが堀切もあります。
あると知らなければ気付かないかもしれません。
遊歩道脇だけ竹の密度が高く、丁度隠れているからです。
道端はそんなに窪んでいませんが、奥へ進むとかなり大きいですラブラブ

【5】山崎城
【5】主郭入口

そして今度は分岐に戻り山頂へ。
奥が開けて見えたココは虎口、の筈ですが・・・
草木に埋もれているとはいえ、ちょっと違う感じがします。

【6】山崎城
【6】主郭

でも、その先にはそれまでの平坦地とは明らかに雰囲気が違います。
だって、色々ありますから^^

【7】山崎城
【7】説明板 説明板を拡大表示図を拡大表示

もちろん、こういう物もあります。
だって、城跡ですからラブラブ
有名な場所の割に、城としては思っていたよりやや小ぶりでした。
山全体を城に見立てればまた別なのでしょうが。

【8】山崎城
【8】豊臣秀吉のアレ

登山道にいくつもあった秀吉モノです。
もちろん、山頂に無い訳がありません。

【9】山崎城
【9】天王山山頂

そして、主郭の北寄りがやや一段高くなっています。
そこに、山頂の標柱と幟があります。
城跡には、こういうのが1つでもあると嬉しくなります合格

【10】山崎城
【10】奥に見える曲輪

さて、主郭の奥にも草木の刈られた平坦地が見えます。
しかも、何だか主郭より一段低い!
もちろんそっち側も見に行きます。
城キチですから。

【11】山崎城
【11】井戸跡

一段低い曲輪で、ひと際目を引くものがあります。
それがこれです。
一目で井戸跡とわかります。
流石山城、山頂でも水が出るんだ!と感動しましたが・・・
穴を掘って雨水を貯めるタイプだと、説明板には書かれています。

【12】山崎城
【12】切岸

さて、一段低い曲輪は主郭を囲むように続いています。
せっかくなので、どこまで続いているのか見て来ました。
こんな感じで帯曲輪状に続いていました。

【13】山崎城
【13】虎口

さて、主要部もひと通り見てさぁ下りよう!と思ったのですが・・・
あれ?どこから来たっけ?と一瞬迷いました。
そんな時に見つけたのがこの虎口です。
主郭に入った所は全くそれらしさがありませんでした。
なので、帰り道はここ以外!ということになります。
このまま下りたら迷子になるので、下りたのはちょっとだけです。
主郭に入ったのは、どうやら土塁の上からだったようです。


◆歴史◆

史料の初見は1336年です

南北朝時代に摂津守護・赤松範資が築いたと考えられています。
赤松家臣・林直弘への軍忠状で「鳥取尾城」の名で登場します。
当時は隣接する男山に南朝方の北畠顕信が拠り京を窺っていました。
北畠顕信は1338年、陸奥への移動に失敗して吉野に入っています。

1470年、山名是豊が陣を構えました

山名是豊は山名宗全の子ですが、父とは不仲でした。
ということで、応仁の乱では敵対する西軍に属しました。
山名是豊の子とはいえ、備後・安芸そして山城の守護でした。
当時は東軍の大内政弘が堺に侵入し、京を窺っていました。

1482年、細川政元が在城しました

細川政元は吉兆家当主で、細川氏の最盛期を築いた人物です。
その権力は将軍をすげ替え、比叡山を焼き討ちする程でした。
在城したのは、摂津の畠山義就討伐の際です。
この戦は摂津国内の領地の交換で和睦しています。

1527年、薬師寺国長が守っていました

薬師寺国長は摂津国守護代で、細川高国に仕えていました。
各地を転戦した活躍により、山崎城の守りを任されたようです。
しかし、敵対する細川晴元軍に攻められ山崎城は陥落。
高槻城に退くものの再び敗れ、細川晴元軍に降伏しています。
山崎城陥落により、摂津の細川高国の諸城が次々と陥落。
細川高国は自ら擁立した将軍を伴い、近江国坂本へ逃れています。

1538年、細川晴元が自ら修築しました

当時の細川晴元は、一向一揆や法華衆、細川高国残党と戦っていました。
彼らに一応の勝利を得た細川晴元は、山崎城を修築しました。
その後も三好長慶と三好政長が争い、木沢長政が背くなど混乱が続きます。
三好長慶と和睦した細川晴元は、摂津を平定するなど勢力を増しました。
しかし、再び三好長慶に背かれると没落し、京周辺を転々とします。

1582年、山崎の戦の舞台となりました

本能寺の変で主を討った明智光秀が、一時天王山に兵を置きました。
しかし、兵力を一点に集中する羽柴秀吉軍の動きを見て兵を移しました。
この動きを見逃さなかった羽柴秀吉は、すかさず天王山を奪います。
明智光秀は再起を図るため勝龍寺城を脱出しますが、途中で討たれました。
羽柴秀吉は主の仇討ちを成し遂げ、以後織田家中で発言力を増します。
羽柴秀吉はしばらくの間、山崎城を居城としました。

1584年、廃城となりました

羽柴秀吉は大坂城を築き、居城とするようになります。
史料ではこの頃「山崎之天守ヲ壊チ取ラン」と記されています。
これは吉田兼見の日記で、城が破却されたことを物語っています。
吉田兼見は公卿で、明智光秀と親しかったとされます。
当時の状況を詳細に記した日記は史料価値がとても高いのですが・・・
本能寺の変の直前部分だけが、別本として分けられているそうです。
何やら、羽柴秀吉に都合の悪い事でも書かれていたのでしょうか?


所在地:京都府乙訓郡大山崎町大山崎 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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