2013/10/27
菖蒲城/埼玉県久喜市
菖蒲城跡は県道12号線沿いにあり、「菖蒲城址あやめ園」となっています。訪問日は2013年10月12日です。

▲城址入口にある栢間陣屋の移築門
菖蒲城跡は、田んぼの中を一直線に突っ切る県道12号線沿いにあります。いかにもな城門がポツンとあるので、すぐにそれとわかります^^

▲内藤正成の肖像画
この城門のすぐ脇には、江戸時代に当地を領した内藤正成についての説明板があります。肖像画までついた説明板があるなんて、有名な武将なんでしょうか?

▲城跡の西を流れる川
城門のすぐ西には1本川が流れています。往時であれば堀の役割をしたであろうことは想像に難くありません。

▲城内の様子
城門をくぐって城内に入ると・・・一面菖蒲の畑となっています。遺構は何も無いそうで、敢えて言えば沼地に浮かぶ島状の地形だけでしょうか。

▲城址碑
そんな菖蒲畑の真ん中に、ポツンと城址碑が建てられています。これがあるだけでも立派に城跡らしさが出てきます^^
◆歴史◆
1456年、古河公方・足利成氏の家臣・金田則綱により築かれました。
竣工が5月5日であったため「菖蒲城」と名づけられたとする説が有力です。当時は鎌倉を追われた足利成氏が古河へ移り、関東管領・上杉氏と全面対決を始めた頃です。地理的にはすぐ北には扇谷上杉方の忍氏と木戸氏、南には太田氏がおり、境目の最前線でした。
1478年頃までには扇谷上杉方の忍氏が成田氏に滅ぼされます。成田氏は当時、古河公方に従っていたので、金田氏も加勢したかもしれませんね。
1525年、金田定綱は山内上杉憲寛に攻められましたが、渋江三郎の援軍を得て撃退しました。
山内上杉憲寛は足利高基の子で、跡継ぎの無かった山内上杉憲房の養子となりました。後に憲房に実子が生まれましたが、幼少の為、家督と関東管領職を継ぎました。古河公方・足利高基の子がなぜ古河公方に従う菖蒲城を攻めたのか・・・
その頃、後北条氏は江戸城を支配下に収めるなど勢力を伸ばしていました。これに対抗するため、扇谷上杉朝興は後北条包囲網を形勢していました。朝興はまずは両上杉家の絆を取り戻そうと憲寛と和解し、同盟を結びました。ここで朝興が古河公方・足利高基と同盟を結べば何も問題は無かったのですが・・・朝興が同盟を結んだのは、なぜか足利義明(高基の弟)でした。足利高基と義明は激しく対立しており、結果として両上杉と古河公方は敵対関係となりました。
1531年、山内上杉憲寛は憲房の実子・憲政に攻められ失脚。足利義明を頼って上総国宮原へ落ちのび、宮原姓を名乗るようになりました。
1537年、金田定綱は小弓公方・足利義明に仕えるようになりました。
この年、北条氏綱が河越城を攻め落としました。これにより扇谷上杉朝定は居城を松山城に移します。古河公方・足利晴氏は親北条でしたが、西隣の成田氏や南隣の太田氏は反北条でした。最前線の地の苦悩ですね・・・おそらく小弓公方に仕えたのは、隣接していなかったからだと思います。間接的に反北条の旗を振ることで、身の安全を図ったのかもしれません。
1538年、金田定綱は古河公方・足利晴氏のもとに帰参しました。
国府台合戦で北条氏綱と小弓公方・足利義明が激戦を繰り広げ、義明が戦死しました。金田定綱は義明に従って参戦していましたが、戦に敗れるとに菖蒲城に逃げ帰りました。そして、晴氏のもとに帰参し、家督を嫡男・頼綱に譲って隠居しました。
1552年、足利晴氏は北条氏康により隠居を迫られ、家督と公方職を義氏に譲ります。義氏は北条氏綱の娘の子なので、北条氏康は古河公方の乗っ取りを図っています。晴氏と嫡男・藤氏はその後何度か北条氏康に抵抗しますが、金田氏は義氏に従いました。
1560年、長尾景虎が関東に攻め入りますが、軍門には降りませんでした。景虎が作成した『関東幕注文』(関東で味方した勢力の一覧)に金田氏は含まれていません。一度は寝返った西隣の成田氏は、翌年には後北条方に帰参しています。
1564年に金田氏は後北条氏から領地を与えられており、次第に家臣化していきました。
1574年、上杉謙信により菖蒲城下が焼き払われました。
北条氏政は上杉方の関東最後の拠点・関宿城を攻略しました。上杉謙信も援軍を率いて来ましたが、利根川の増水により間に合いませんでした。その腹いせでしょうか、因縁のある成田氏の各城下に火を放って引き上げました。この時に一緒に焼き払われたことから、金田氏は成田氏と関わりがあったと思われます。しかし、1578年正月には古河公方・足利義氏に年頭の挨拶に訪れています。古河公方の家臣という立場は守り続けていたようですね。
1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅び、廃城となりました。
金田氏は後北条氏の家臣であったため、この時に領地を没収されました。金田秀綱は帰農し、大塚姓を名乗るようになりました。菖蒲の地は徳川家康の家臣・内藤正成に与えられました。
内藤正成は徳川家康の譜代の家臣です。三方ヶ原の戦で武田信玄に敗れ退却する際は、家康を守るために嫡男を犠牲にしています。徳川家随一の強弓の名手として、徳川十六神将にも数えられています。しかし、晩年は不遇だったようで・・・与えられた菖蒲の地は5000石でした。内藤氏は下栢間に陣屋を構え、幕末まで続きました。その陣屋の門が、菖蒲城跡に移築されています。
現在、城跡は「菖蒲城址あやめ園」となっています。その名の通り菖蒲園となっており、見頃は6月上旬から下旬です

所在地:埼玉県久喜市菖蒲町新堀
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【2020年8月5日撮影】ドローン映像を追加しました
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