2013/10/26
油井ヶ島城/埼玉県加須市
油井ヶ島城跡は周囲を田んぼに囲まれています。訪問日は2013年10月12日です。

▲遠景
油井ヶ島城はその名の通り、周囲を沼に囲まれた島でした。今はその沼が田んぼに姿を変えていますが、往時の雰囲気が伝わりますね^^

▲鐘衝山の碑
城域の西端には少し高い土盛りがあり、そこにポツンと石碑があります。周囲を杭と針金のフェンスで囲まれていて中には入れないので遠くから。このフェンス、所々倒れているので入ろうと思えば入れるのですが・・・囲ってある所には入っちゃいけませんよね。地主さんは史跡として整備してほしいと土地を寄付したそうですが・・・その想いに早く応えて欲しいものです。

▲説明板
フェンスの外側に沿って歩いていると、説明板が1枚ありました。そこには「鐘衝山」と呼ばれるようになったいきさつが書かれていました。
◆歴史◆
築城年代や築城者はわかりません。西に2kmの所にある騎西城の支城だったようです。
1563年、北条氏康と武田信玄の連合軍が上杉輝虎(のちの謙信)の松山城を攻めました。輝虎は雪山を無理して越えたものの間に合わず、松山城は落城してしまいました。しんどい想いをして雪山を越えて来たのに、手ぶらでは帰れない・・・そう思ったかどうかは知りませんが、輝虎は後北条氏に寝返っていた成田長泰を攻めました。
この時に最初にターゲットにされたのが油井ヶ島城でした。まさか松山城を救援に来た上杉軍が、関係無い城に攻めて来るなんて・・・油井ヶ島城の兵はこの時、鐘を衝いて騎西城に危急を知らせたのでした。
お隣同士の小競り合いならこれで援軍が来るのでしょうが・・・上杉軍は同時に騎西城も囲んでいたのです。いくら鐘を衝いても援軍が来ないと悟り、城兵は武具を埋めて逃げてしまいました。
以後、油井ヶ島城は「鐘衝山」と呼ばれるようになりました。その後、上杉軍は忍城も取り囲み、成田長泰は降伏。長泰は家督を成田氏長に譲り、隠居することを強いられました。
所在地:埼玉県加須市油井ヶ島
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