2022/08/11
笠置城/京都府笠置町
笠置城は、歴史的事件のあった場所です。訪問日は2022年7月31日です。
![]() 【軌跡】別ウィンドウで表示 笠置城は、鎌倉幕府討幕を目論んだ後醍醐天皇が拠った場所です。 周囲を険しい絶壁で囲まれた天然の要害です。 どうやら観光名所のようで、境内散策には拝観料が必要です(300円)。 さらに、6から先は反時計回りの一方通行となります。 11の「二の丸」までは崖っぷちの岩場を通る細く険しい道が続きます。 二の丸から先の道は平坦で、貝吹き岩やもみじ公園などの平坦地があります。 そして、山頂部の平坦地が「行在所」と呼ばれています。 険しい道を経てようやく辿り着くのですが、分岐の6まではすぐです。 下りて来た時にT字路となりますが、帰りは右へ進みます。 案内が無いのでどっちだろう?となりますが・・・ 矢印に従うと、私のように一方通行の2周目を回ることとなります ![]() (2周目の軌跡は削っています) |
![]() 【1】笠置寺の有料駐車場(500円) 麓の「登山口」から細道を登り切った所が駐車場です。 それまでの細道が嘘のように広々としています。 ここも曲輪だったのでしょうか。 |
![]() 【2】案内図 拡大表示 駐車場から境内へ向かう道の入口に、この案内図があります。 大きさといい配置といい、とてもわかりやすいです ![]() 惜しむらくは、城跡の案内ではないこと。 そっとどこかに書き加えて頂けると、城キチ的にはヽ(^o^)丿です。 |
![]() 【3】境内への分岐箇所 駐車場から上がると、何やら賑やかなココに着きます。 もしここにこれらが無ければ、大抵の人は真っすぐ進むと思います。 真っすぐ進んだ先は、雉料理屋さんです。 笠置寺の境内へは、右の細道へ入ります。 |
![]() 【4】境内へ続く道 右へ曲がった細道です。 掘り下げられた道で、寄せ手はここを通らないと進めません。 |
![]() 【5】山門 笠置山縁起・笠置型燈籠の説明板を表示 細道を上がった所には、厳重な門が待ち構えています。 「拝観料を申し受けます。」の文字がやたらデカイですw |
![]() 【6】境内の散策路 拝観料を払って境内へ。 入ってすぐのここで、右の道と左の階段とに分岐します。 ここからは一方通行となるので、右の道へ進みます。 |
![]() 【7】胎内くぐり 説明板を表示 城跡としての痕跡を探しに訪ねたのですが・・・ それらしさは今の所あまり感じられず。 断崖絶壁の岩場が続き、要害堅固な場所だというのは実感出来ます。 |
![]() 【8】太鼓岩 所々にこんな感じの岩の通路があります。 城だった時のものか、お寺の時のものか・・・ 通りにくいので、お城だった時のものと思いたいです。 |
![]() 【9】ゆるぎ岩 説明板を表示 でもこれは・・・w お城的発想だと、この上に首を置きそうです ![]() だなんて勝手に想像していましたが、違いました。 これは、攻め寄せた敵の上に落とそうと準備した岩だそうです。 こんな大きな岩が上から降って来たら、イテテじゃ済みません ![]() |
![]() 【11】二の丸 説明板を表示 平等岩から九十九折れの岩道を登った所が二の丸です。 後醍醐天皇の仮皇居がここに置かれたのだそうです。 二の丸は、行在所を本丸に見立てた呼び名だそうです。 ということで、笠置城には「本丸」とか「主郭」はありません。 |
![]() 【12】二の丸から見えた貝吹き岩のある場所 二の丸から一気に行在所へ行っても良かったのですが・・・ 何となく、物見っぽい所がチラっと見えちゃいました。 城跡らしさに飢えた私の足は、ふらっとそちらへ吸い寄せられました。 |
![]() 【13】貝吹き岩 説明板を表示 尾根先端には二の丸と同じ位の広さの平坦地があります。 そして、その先端右側には、きっとこの上に乗るであろう巨岩が。 その足元に「貝吹き岩」の説明板がありました。 攻められた宮方は、ここで法螺貝を吹いて士気を高めたのだとか。 |
![]() 【15】行在所入口 説明板を表示 貝吹き岩から二の丸へ戻り、再び先へ。 二の丸から先の道は、平坦そのものです。 そしてついに中核部分に辿り着きました。 ここには説明板だけではなく、石碑まであります^^ |
![]() 【16】行在所 ここが笠置山の山頂で、後醍醐天皇が居た時の中核部分です。 城で言えば本丸とか主郭に相当する場所です。 中心部分は、石の柵で囲まれています。 柵の端は楽々通れますが、だからと言って中には特に何もありません ![]() |
![]() 【17】大講堂 行在所の下には小さな平坦地があり、そこから下り坂に。 下には大講堂の建物が見えます。 大講堂の前の階段を下りたら、一方通行のスタート地点です。 私は気付かず矢印の方に進んでしまい、一方通行2周目に突入 ![]() 笠をかぶった石像があったら、右へ進んで下さい。 |
![]() 【18】稲荷社 さて、スタート地点に戻ると、反対側にも小高い場所が見えます。 ここまで城跡らしさはほぼ感じられず。 もしかしたらの願望を胸に、そっちにも登ってみました。 ここはすぐの行き止まりに稲荷社があります。 まぁ、曲輪なんでしょうけど・・・ 虎口も土塁も堀もありません。 |
◆歴史◆
飛鳥時代には既に山寺があったと考えられています。
笠置寺の創建時期には諸説あり、時期は不明です。
・笠置寺縁起では682年、大海人皇子(天武天皇)
・『今昔物語集』ではその先代、大友皇子(弘文天皇)
が創建したとされます。
文献上の初見は『東大寺要録』の879年だそうです。
とにかく古くからあった山岳寺院ということになります。
1331年、戦の舞台となりました
鎌倉幕府討幕計画が露見した後醍醐天皇が、身を潜めました。
囮の近臣を比叡山に潜ませたものの、ココに隠れているのがバレます。
すると鎌倉幕府は7万5千もの軍勢を集め、笠置山に殺到しました。
守備勢の兵力は3千程でしたが、天険の要害を盾に約1ヶ月持ち堪えました。
しかし、幕府軍は決死隊50名を選抜し、断崖からの侵入を決行。
各所に火を放ち、ようやく陥落しました。
後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐島へ流罪となりました。
これが元弘の乱の始まりです。
鎌倉幕府は、隠岐島を脱出した後醍醐天皇に討伐軍を派遣しました。
その軍を率いていたのが足利高氏(尊氏)です。
あとの展開はあまりにも有名なので、省きます。
1541年、木沢長政が居城としました
木沢長政は、内部抗争を続けていた畠山家の家臣です。
畠山義就を祖とする総州家に仕えましたが、次第に自立します。
1539年、細川晴元と三好長慶が主従で争いました。
将軍・足利義晴は、六角定頼と木沢長政に調停を命じました。
この時の功により、木沢長政は河内国北半国守護代と信貴山城を得ます。
木沢長政はこの時に、笠置城を「修築」し居城としました。
・・・何気に気になるワードです。
笠置寺は1300年代だけで焼失→再興を3度繰り返していました。
お寺としての勢力が、それだけで相当衰えたのでしょうね。
1542年、木沢長政が討死しました
木沢長政が命令違反を繰り返したため、室町幕府は遂に討伐を決定。
細川晴元が、前年に和解した三好長慶を中心に動きます。
まずは伊賀国守護の仁木長政に、笠置城攻略を命じました。
仁木長政は忍者部隊を編成したものの、返り討ちに遭って失敗します。
歴史上、忍者による攻城はこれが初めてとされます。
その後、細川晴元の挙兵を知った木沢長政は、兵を率い迎え撃ちます。
両陣営は木津川・淀川を挟んで対陣したまま年を越しました。
その後、畠山稙国、遊佐長教も参戦し、木沢長政は大和に撤退。
二上山城に籠り、信貴山城の畠山政国とともに敵方の高屋城に備えます。
1542年3月17日、高屋城の軍勢と木沢軍の偵察隊が激突。
木沢長政は主力部隊を率いて、偵察隊の援護に向かいました。
そこに現れたのは、信貴山城の軍勢ではなく三好長慶軍でした。
木沢長政は飯盛山城を目指し撤退しますが、途中で討ち取られました。
木沢氏は以後衰退し、代わって若い三好長慶が台頭することとなります。
所在地:京都府相楽郡笠置町笠置 GPSログダウンロードページ
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