2013/10/20
羽生城/埼玉県羽生市
羽生城跡には古城天満宮があります。訪問日は2013年10月12日です。

▲城址碑
ちょっと路地を入った所にあって場所がわかりづらいかもしれません。住宅街の中を走っていて、パッと開けた場所が羽生城跡です。水色の低いフェンスで囲まれていて、雰囲気は公園のような感じです。

▲縄張図
その入口に城址碑と並んで縄張図があります。陽に焼けてかなり色褪せてしまっているのが残念(´・ω・`)ですが、周りを沼で囲まれていたんだという雰囲気は伝わります。

▲古城天満宮
城跡には古城天満宮があります。縁起を読む限りではお城よりもこっちの方が先にあったような・・・w
◆歴史◆
羽生城は1536年までに広田直繁・河田谷忠朝の兄弟により築かれたと考えられています。2人とも木戸範実の子で、それぞれ養子となっていました。木戸範実の実家・木戸氏は古河公方の重臣です。
羽生城の木戸氏は、木戸持季の弟・範懐から始まります。範懐は扇谷上杉氏に仕えるようになりました。木戸持季は1450年頃に活躍した人物です。・・・ということは、範懐が主を変えたのは享徳の乱の頃でしょうか。
享徳の乱は1455年、鎌倉公方が関東管領を暗殺した事に始まる足利氏と上杉氏の戦です。この乱はその後23年間も続きました。敵に仕えるということは、家中に争いがあったのかもしれません。木戸氏は扇谷上杉氏に仕え、江戸城主・太田氏の客将となっていました。木戸範実は範懐の曾孫にあたります。
1536年というと、後北条氏が河越城を攻め落とす前の年です。また、岩附城主・太田資頼が没した年でもあります。このことから、羽生城は後北条氏に対する備えとして築かれたものと考えられています。
1546年、河越夜戦がありました。この戦は扇谷上杉朝定が山内上杉憲政治、古河公方と共に河越城を包囲しました。しかし、圧倒的な数的不利を覆し、北条氏康が大勝利を収めました。この時に岩附城主・太田資顕は後北条氏に内通し、河越城への攻撃には参加しませんでした。1536年に家督を継いだ時からそんな雰囲気があったのかもしれませんね。
歴史的勝利を収めた後北条軍は、この機会に周辺に勢力を拡げました。扇谷上杉氏は滅び、一気に松山城まで攻め落としました。また、古河公方も降伏させて、後北条氏の娘の子・足利義氏に家督を継がせました。
周囲の土豪達が次々と後北条氏に降る中、木戸氏は抵抗を続けます。
1560年、長尾景虎が小田原城を攻めた際に、広田直繁・河田谷忠朝兄弟も参陣。
1563年、上杉輝虎は成田長泰から皿尾城を奪い、河田谷忠朝を城主にしています。
1564年、成田長泰が皿尾城に攻め寄せますが、太田資正の援軍を得て撃退しました。
しかしこの年、反北条の太田資正の留守を狙って、資正の嫡男で親北条の太田氏資が謀反。岩附城も後北条氏の傘下となりました。
1569年、上杉輝虎と北条氏政が同盟を結びました。周囲を後北条氏勢力に囲まれた木戸兄弟はさぞ肩の力が抜けたことでしょう^^
1570年、上杉輝虎は何度も離反を繰り返す佐野氏を攻めました。直繁・忠朝兄弟も従いますが、館林城に入った広田直繁が以後史料に登場しなくなります。直繁は由良国繁の弟・長尾顕長に謀殺されたとする説が有力です。
1572年、北条氏政が越相同盟を破棄します。そのため、羽生城は再び後北条氏の攻勢に晒されるようになります。
1574年、後北条氏に攻められ忠朝・重朝父子が討死(したと思われます)。上杉謙信は羽生城を破却し、木戸範秀と直繁の子・菅原為繁を上野国膳城と山上城へ移します。しかし・・・1578年、上杉謙信が没すると後北条軍に攻められ、膳城は落城。山上城については定かではありませんが、膳城とかなり近いため落城したものと思われます。
一方の羽生城は成田氏長が接収し、成田長親、善照寺向用斎、野沢民部を城代とします。のぼうだw
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、石田三成が攻め寄せます。成田氏長は羽生城を捨て、長親らに忍城を守るよう命じます。
戦後、後北条方であった成田氏は所領を没収され、羽生城は大久保忠隣が城主となります。1594年に父・大久保忠世が没するとその遺領を継ぎ、小田原城主との兼任となります。
1614年、大久保忠隣が改易され、羽生が天領となったため廃城となりました。改易は武断派の大久保忠隣と文治派の本多正信・正純父子との対立が原因でした。徳川家康の死後、井伊直孝が忠隣の冤罪を晴らそうとしました。しかし、忠隣は「家康に対する不忠になる」と断ったそうです。
所在地:埼玉県羽生市東5丁目(古城天満宮)
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