2013/10/20
別府城/埼玉県深谷市
別府城跡は現在東別府神社となっています。訪問日は2013年10月12日です。

▲東別府神社

▲説明板

▲東別府館址碑

▲南の土塁
辿り着いたのは南側でしたが、いきなり土塁が現れてびっくりしました。神社の入口には"東別府館址碑"があります。立派な石碑でテンション


▲東の空堀

▲東の虎口
さっそく恒例のぐるっと1周。南側の土塁からなぞって行きました。すると・・・東側にはクッキリと空堀の跡が


▲北の空堀

▲西の虎口
さらに北→西へと回りましたが、空堀・土塁・虎口がとても良い状態で残っています。西の虎口などはしっかり食い違いになってるし^^こんな小さな規模の館でも、しっかり防御を意識した造りになっていました。

▲別府城址碑
西の虎口から再び城内に入ると、ブランコや鉄棒の向こう側にまたまた城址碑が。こちらには"別府城址碑"と刻まれています。・・・まっ、いいか

◆歴史◆
成田氏の祖・成田助隆の次男・行隆が平安時代末に居を構えたことに始まります。成田氏は鎌倉幕府が滅んだ時に一度所領を没収されて没落しました。その後を姻戚関係にあった安保氏が名跡・所領とも継いでいます。ここで別府氏は成田氏とは血縁が切れています。
室町時代になり北朝と南朝が争った時代、別府氏は武蔵北白旗一揆に属しました。武蔵北白旗一揆は北朝方であり、足利尊氏について足利直義や北畠顕家討伐で活躍しました。また、上杉禅秀の乱では鎌倉公方方につき、禅秀方となった同族の玉井氏を討伐しています。その後、成田氏が忍氏を滅ぼすなど勢力を拡げると、別府氏は再び成田氏の傘下となりました。
1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされました。別府長清も主・成田氏長とともに後北条方であったため所領を没収されました。
所在地:埼玉県深谷市東別府(東別府神社)
埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント