2022/08/09
木津城/京都府木津川市
木津城は、主郭だけ残された山城です。訪問日は2022年7月31日です。
![]() 別ウィンドウで表示 木津城は、主郭だけ残してガッツリ削られています。 場所自体は「木津城址公園」なのですが・・・ 「木津運動公園」じゃないかと思ってしまいます。 国土地理院の地図が追い付いてないので、割と最近っぽいです。 |
![]() 【1】城址公園の駐車場から 駐車場は、東側を走る道から城跡の北東→北西に入ります。 この道が狭く、離合は難しいかもしれません。 駐車場から見た城山は、斜面が「ヤッパリ」な感じです。 |
![]() 【2】トイレ脇にある案内図 拡大表示 ただ、悪い事ばかりでもありません。 開けているだけあり、図の類は充実しています。 城跡のメイン部分だけ残していて、全体像は掴めませんが・・・ |
![]() 【3】登城路? あとは歩きやすいです。 夏の城跡巡りで、訪ねる基準はやっぱり歩きやすさです。 藪があったり、やたら高かったりは、夏はツライです。 でも、現地に行って「あれれ?」はたまにありますけど ![]() |
![]() 【4】現在の天守 ではありません。 山上にある何かの施設です。 城址公園、ですよね? |
![]() 【5】西側の登城路 山上に出てから「どこから登る?」と少し迷いました。 事前調査では「見りゃわかるっぺ」と油断したからです ![]() まぁ、上の場所から何となく見えましたケド。 |
![]() 【6】説明板 図を拡大表示 階段の脇には、やはり素晴らしい説明板があります。 汚れ具合から、ちょっとばかし年数は経ってるようです。 綺麗に撮るためにウェットティッシュを持ち歩いてるのですが・・・ 綺麗サッパリ忘れてそのまま撮ってしまいました。 |
![]() 【7】主郭 階段が整備された道を登り、あっという間に主郭に到着です。 木が伐採され、見学しやすくなっています。 主郭内部は、ですが。 空は開けていますが、街中ということでドローンは準備してません。 どこでも飛ばして良いものではありませんからね・・・ 今年6月に規制厳しくなりましたし。 |
![]() 【8】主郭の真ん中にある説明板 図を拡大表示 説明板が何枚もあり、充実しています。 文面は単郭のお城だったっぽいことが書かれています。 まぁ、土塁は低く堀も浅いのでそうかもしれませんが。 |
![]() 【9】虎口 主郭の四隅からは、各方面への遊歩道が出ています。 その全てが、土橋のある虎口となっています。 あまりに道が多過ぎて、きっとどれかは新しい道かもです。 周りがヤラレ過ぎなので、ちょっと信じられなくなってしまいます。 ここでも堀の地位は低く、自然に任せるままの藪となっています。 |
![]() 【10】竪堀? 北東側の虎口から出た所です。 これは城としての道なのか否か。 近世の道なら必要な所だけ重機で削りますがそうではありません。 かといって、往時の道にしては不用心過ぎな感じもします。 どうなんでしょう? |
![]() 【11】土塁 そのまま主郭内部を1周しました。 他に見る所もありませんので。 外周は低い土塁で囲まれています。 その外の藪の中には、横堀が見え隠れしています。 事前の予想よりは色々残っている感じに見えました。 |
◆歴史◆
・築城年は不明、地元の土豪・木津氏の城でした。
・山城と大和の間にある要衝のため、度々戦場となりました。
・1457年、畠山義就に攻められ、木津氏が自焼。
畠山義就は畠山持国の庶子ですが、将軍により後継者とされました。
しかし、家中では畠山持国の弟の子・弥三郎を推す派閥が猛反発。
この争いが周辺諸国を巻き込む大争乱となりました。
ということで、木津氏は弥三郎派だったと思われます。
・応仁の乱では、大和国守護・筒井順永が拠点としました。
筒井順永は、畠山義就と敵対する陣営でした。
・1477年、木津氏により再び自焼。
この年、畠山義就が筒井順永に勝利し大和国を支配下に置きました。
その時の戦いでの出来事と思われます。
・畠山氏の家督争いに嫌気がさした国人衆により山城国一揆が発生。
・畠山氏の勢力は衰え、一揆を鎮圧した細川氏が支配者となります。
・細川家中も一枚岩ではなく家督争いが続き、三好氏が台頭。
・三好長慶の没後、三好家中で三好三人衆が主導権を握ります。
・1568年、上洛した織田信長が三好三人衆を撃破。
以後、木津城は使われなくなりました。
所在地:京都府木津川市城山台7丁目 GPSログダウンロードページ
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