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四方田氏館/埼玉県本庄市

四方田氏館は関越道・本庄児玉ICのすぐ近くにあります。
訪問日は2013年10月12日です。

四方田氏館/遠景
▲遠景

本庄児玉ICの東側の田んぼの中に、島のような集落があります。ここが四方田氏の館跡です。

四方田氏館/外堀跡?
▲外堀跡?

集落の周りを取り巻く道端には、細い水路が巡っています。これは外堀の跡でしょうか?

四方田氏館/光明寺
▲光明寺

西の郭跡には光明寺があります。小じんまりとしたお寺ですが、お墓がびっしり。ここを菩提寺とする家が多いのでしょうね。

四方田氏館/内堀
▲内堀

もっと他に遺構は無いかな?と周囲を1周。北側から入ると、門の両脇に堀の跡がありました^-^


◆歴史◆(推測多し)

四方田氏館は平安時代末、「四方田氏」が館を構えたことに始まります。ただ、誰が館を構えたかは諸説あります。みんな庄弘高の子で兄弟なのですが・・・

四方田氏は関東七党の1つ、児玉党・庄氏の出身です。源平合戦での戦功により、四方田の地を安堵されました。四方田を名乗った庄氏の兄弟は、3男・弘長、4男・弘季、5男・弘綱と7男・高綱です。既に4人も候補がw

ここから館の主を絞り込めるか・・・

3男・弘長は源頼朝に従い、奥州征伐の戦功により備後国御調本北条の地頭となりました。今でいう広島県尾道市を領地として与えられたのです。しかし、1204年に北条時政によりその領地は取り上げられたそうで・・・その後どうなった、というより任地へ赴いたのかすらわかりません^^;

4男・弘季は後に牧西姓を称するようになります。

5男・弘綱も源頼朝に仕え、戦功により伊勢国多々庄の地頭となりました。今でいう三重県多気郡多気町のようです。『吾妻鏡』で伊勢参りをした公卿が、駅家はサボってるヤツが多いとチクッています。その中に四方田五郎の名が登場します。・・・ということは、五郎は任地である伊勢に赴いたということでしょうか。

7男・高綱については不明ですが・・・館の東にある金佐奈神社は、高綱の子・資綱が勧請したそうです。

ということで、最有力候補は七郎高綱だと思います。吾妻鑑ではその後、七郎高綱の子孫の名が多く現れています。

鎌倉時代の末、新田義貞が倒幕の兵を挙げました。この時、四方田氏は新田方として行動しましたが、足利尊氏に敗れています。それでも領地を保っており、四方田氏は続いています。

武蔵国と上野国の国境近くであり、室町時代は山内上杉氏の被官だったと思われます。この辺りの歴史は複雑で、上杉と後北条の間で翻弄される土豪が殆どでした。四方田氏も周辺勢力と同様、最終的には後北条氏に仕えました。北条氏邦が1566年に書いた書状に、四方田源左衛門尉が登場しています。

1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした時に帰農したと思われます。それは・・・主郭跡に住んでいる方が四方田さんだと、他のサイトに書かれていたからです。今でも現役の館ということですね^^


所在地:埼玉県本庄市四方田

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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