2013/10/14
四方田氏館/埼玉県本庄市
四方田氏館は関越道・本庄児玉ICのすぐ近くにあります。訪問日は2013年10月12日です。

▲遠景
本庄児玉ICの東側の田んぼの中に、島のような集落があります。ここが四方田氏の館跡です。

▲外堀跡?
集落の周りを取り巻く道端には、細い水路が巡っています。これは外堀の跡でしょうか?

▲光明寺
西の郭跡には光明寺があります。小じんまりとしたお寺ですが、お墓がびっしり。ここを菩提寺とする家が多いのでしょうね。

▲内堀
もっと他に遺構は無いかな?と周囲を1周。北側から入ると、門の両脇に堀の跡がありました^-^
◆歴史◆(推測多し)
四方田氏館は平安時代末、「四方田氏」が館を構えたことに始まります。ただ、誰が館を構えたかは諸説あります。みんな庄弘高の子で兄弟なのですが・・・
四方田氏は関東七党の1つ、児玉党・庄氏の出身です。源平合戦での戦功により、四方田の地を安堵されました。四方田を名乗った庄氏の兄弟は、3男・弘長、4男・弘季、5男・弘綱と7男・高綱です。既に4人も候補がw
ここから館の主を絞り込めるか・・・
3男・弘長は源頼朝に従い、奥州征伐の戦功により備後国御調本北条の地頭となりました。今でいう広島県尾道市を領地として与えられたのです。しかし、1204年に北条時政によりその領地は取り上げられたそうで・・・その後どうなった、というより任地へ赴いたのかすらわかりません^^;
4男・弘季は後に牧西姓を称するようになります。
5男・弘綱も源頼朝に仕え、戦功により伊勢国多々庄の地頭となりました。今でいう三重県多気郡多気町のようです。『吾妻鏡』で伊勢参りをした公卿が、駅家はサボってるヤツが多いとチクッています。その中に四方田五郎の名が登場します。・・・ということは、五郎は任地である伊勢に赴いたということでしょうか。
7男・高綱については不明ですが・・・館の東にある金佐奈神社は、高綱の子・資綱が勧請したそうです。
ということで、最有力候補は七郎高綱だと思います。吾妻鑑ではその後、七郎高綱の子孫の名が多く現れています。
鎌倉時代の末、新田義貞が倒幕の兵を挙げました。この時、四方田氏は新田方として行動しましたが、足利尊氏に敗れています。それでも領地を保っており、四方田氏は続いています。
武蔵国と上野国の国境近くであり、室町時代は山内上杉氏の被官だったと思われます。この辺りの歴史は複雑で、上杉と後北条の間で翻弄される土豪が殆どでした。四方田氏も周辺勢力と同様、最終的には後北条氏に仕えました。北条氏邦が1566年に書いた書状に、四方田源左衛門尉が登場しています。
1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした時に帰農したと思われます。それは・・・主郭跡に住んでいる方が四方田さんだと、他のサイトに書かれていたからです。今でも現役の館ということですね^^
所在地:埼玉県本庄市四方田
埼玉県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント