2023/10/16
佐久山城/栃木県大田原市
佐久山城は、公園になっています。
訪問日は2022年5月4日です。
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城跡は御殿山公園になっています。
登城路は北東側から公園内を通ります。
園路に従って進むと、大きな広場があります。
ここが二郭で、奥に稲荷神社があります。
二郭は、両側を細長い曲輪で挟まれています。
西側の曲輪の先端には虎口があり下に通じています。
西側には、すぐ下に広い畑があります。
こっちからだと要害性ゼロだと感じましたが・・・
等高線を見ると、その北側で閉じています。
おそらくこの畑も曲輪だったと思われます。
二郭付け根から南に、もう一段高い所があります。
そこが佐久山城の主郭です。
現状はダリア圓ですが、放置されています。
主郭南側には横堀があります。
東側にも細長い曲輪があり、横堀があります。
これらの横堀は整備されておらず、藪気分を味わえます。
東側はそのまま、高低差無く市営住宅に通じています。
公園化されていますが、城の地形はよく残っています。 |
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【1】佐久山ほほえみセンター 上に戻る
御殿山公園の駐車場です。
佐久山ほほえみセンターありますが。
普段はガラガラのようです。
訪問した日は隣接する小学校に人だかりが。
GW真っ最中なので、おそらく体育祭かと。
ココから登城スタート! |
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【2】御殿山公園の入口 上に戻る
現代の登城口はココです。
御殿山公園として整備されています。
ココだけ見ると遺構が残ってるか心配に。
公園の案内図は公園そのものです。 |
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【3】奥へ進みます 上に戻る
曲輪のあった尾根に挟まれた谷戸です。
谷戸は尾根に挟まれているため水が豊か。
現状でも菖蒲園になっています。
往時は堀代わりだったかもしれません。
駐車場には土砂災害警戒区域の図がありました。
そこでは二郭先端から北側は急斜面です。
湿地と急斜面で城をガードしたようです。 |
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【4】帯曲輪 上に戻る
公園を奥へ進むと階段があります。
斜面の上に架けられていて梯子のよう。
元々はここから登るのではない様子です。
その階段を登ると、途中に細長い段が。
二郭に沿ってある帯曲輪のようです。
とりあえずこちらから見ることに。 |
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【5】二郭先端の真下 上に戻る
帯曲輪はそのまま二郭先端へ。
見上げるとこんな感じです。
ちゃんと斜面を削って切岸にしてます。
石垣はいかにも現代的ですが。
視線を右に移すと、腰曲輪があります。
こちら側からはそれで行き止まりに見えました。14:59 2023/10/15 |
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【6】主郭と二郭の間 上に戻る
帯曲輪を付け根まで戻りました。
ココは二郭と主郭を隔てる堀切があります。
堀切なのですが、こちらと向こう側を繋ぐ道でも。
役割的にはそっちの切通といった感じです。
城内各所に通じる要衝デス。 |
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【7】二郭 上に戻る
上の所から回れやや右した所です。
細長い広大な平地があります。
ココが二郭です。
左側(西側)に高い土塁が聳えます。 |
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【8】稲荷神社 上に戻る
二郭先端には稲荷神社があります。
普段見るのと違って鳥居が朱であありません。
キツネ様のお姿も見当たらず・・・
鳥居の額が無ければそれとわからず。
まぁでも、神様は見た目じゃありませんからね。
たぶん。 |
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【9】二郭先端の下 上に戻る
下を見ると、さっきの帯曲輪の先端が見えます。
行き止まりに見えた腰曲輪に通じてそうな感じです。 |
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【10】二郭西側の曲輪 上に戻る
二郭は西側にも曲輪があります。
こちらはかなり幅が広いです。
私的には三郭と呼びたいくらいに。
右上の二郭とは土塁と切岸で隔てられています。
二郭の土塁は、ココにあった土を上げたものかも。 |
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【11】その西側 上に戻る
すぐ外側には、もう一段低い平坦地があります。
こちら側との高低差はあまり無し。
尾根先端に築き、急斜面と湿地帯で防御してたハズが・・・
こんなに近いと、ココから城内に侵入されそうです。
現地ではそう思いました。
等高線付の地図を見ると、違う考えが浮かびました。
この平坦地の北側が、両側から伸びた尾根で閉じています。
まるで、超巨大枡形のような地形になっているのでした。 |
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【12】虎口 上に戻る
二郭西側の曲輪の先端には土塁があります。
しかも両側から土が迫り、進路を限定。
どう見ても虎口です。
奥まで進むと、下に通じる道がありました。
往時の大手口はココでしょうか。
江戸時代には真下の小学校が陣屋でしたし。 |
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【13】主郭の下 上に戻る
二郭との間から段差を上がると階段が。
ここはちょっとした腰曲輪のようです。
往時は塀で囲んだ虎口だったのかもですが。
見た感じ、階段自体後付けっぽいです。 |
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【14】主郭 上に戻る
手入れがされていない花園でした。
それでも生き残って花を咲かせてるものも。
これから夏になると、みっしりしそうです。 |
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【15】主郭からの眺め 上に戻る
まぁでもまだ春だし。
草丈が低いので視界が利きます。
城内を一望!という感じのアングルです。
二郭はとても良く見えます。
眺めは二郭先端の方が良かったかも。
木を伐ればですが。 |
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【16】主郭の南側 上に戻る
視線を回れ右すると、眼下に横堀が。
ちょっと野生っぽいですが・・・
まだ春だし大丈夫でしょ!
こういう決断だけは無駄に速いです。 |
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【17】主郭南側の横堀 上に戻る
上から見えた横堀を見て来ました。
せっかくですので(*´ω`*)
上から見た程の藪ではありませんでした。
寒いのは嫌いですが、藪が薄いのは助かります。 |
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【18】主郭東側に伸びる横堀 上に戻る
横堀は、主郭の東側にも続いていました。
ちょっと土がこんもりしている脇にです。
このこんもりは尾根のようです。
木々が茂っていたので登りませんでしたが。
上がりませんでしたが、横には進みました。 |
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【19】堀切 上に戻る
横堀で藪を掻き分け進むと現れました。
こちら側の尾根を断ち切る堀切です。
でも、両サイドに横堀がある時点で・・・
機能してませんよね?
ダラダラ続く曲輪を切っただけかもですが。 |
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【20】市営住宅へ続く道 上に戻る
藪の横堀を進み堀切を過ぎると道が。
右側を見ると、住宅が並んでいました。
こっちからだと高低差無しで入れるんですネ・・・
もしかしたらこっちにも曲輪があったのかも。 |
◆歴史◆
1187年、佐久山泰隆により築かれました
佐久山泰隆は、那須氏初代・那須資隆の次男です。
源平合戦の時は平家方でした。
親と兄弟の上から9人までがそうでした。
でも、十一男の那須与一が屋島の戦で大活躍。
戦後、那須家の家督を継ぎました。
すると、兄たちも赦され各地に分知されました。
平家滅亡が1185年なので、もう少し後かと思いましたが。
1187年は源頼朝が奥州藤原家討伐直前です。
10月に藤原秀衡が没し、きな臭さが増した時期です。
1563年、廃城になりました
当時の城主は佐久山義隆です。
勇将として知られ、大田原資清の娘を娶っていました。
しかし、義父がその武勇を恐れ・・・
娘婿を討つよう遺言を残して世を去りました。
子の大関高増らはその遺言を実行。
うずら狩りに誘い出し、謀殺しました。
城は大田原資清の次男・福原資孝が攻め落としました。
福原資孝は佐久山氏の領地を併呑。
佐久山城を廃城としました。
佐久山義隆の妻は出家し、夫と娘の菩提を弔いました。
続柄不明の佐久山泰秀は難を逃れ、入江野城に移りました。
しかし、そちらも1586年に那須資晴に滅ぼされています。
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