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大田原城/栃木県大田原市

大田原城は、明治まで続いた大田原氏の居城です。
訪問日は2022年5月4日です。

大田原城【写真位置】大きな地図を表示
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蛇尾川西岸の独立丘陵にあったのが大田原城です。
丸々ひとつの丘を城にしています。
周りは市街地となり、城内も公園になっています。
それでも色々と城らしさが残っています。
とにかく規模の大きな城跡です♪
大田原城【1】
【1】西曲輪 上に戻る

城跡の大きな道沿いに広い駐車場があります。
街中の城跡なので、とてもありがたいです。
というここも、実は城跡です。
城の西側を南北に走る道は堀跡。
その内側の広い駐車場が西曲輪の跡です。
大田原城【2】
【2】北曲輪の入口 図を表示 上に戻る

西曲輪跡の駐車場から上がった所です。
切岸下を道が横切り、正面が入口っぽくなっています。
構造を知らずに見ると、ここから入るように見えます。
しかし、ここを進んだ所にあるのは北曲輪です。
大田原城【3】
【3】北曲輪(上の段) 上に戻る

北曲輪の上の段は公園になってます。
堀底かと思わせるように、外側は土塁が囲んでいます。
私的にはココが二の丸じゃねぇかと思う位です。
大田原城【4】
【4】北曲輪(下の段) 上に戻る

北側にある曲輪の下の段です。
畑になっています。
畑なので入れないのかと諦め掛けていました。
北への橋に通じる通路にだけは入れました。
下の段とはいえ、とても広いです。
大田原城【5】
【5】北側の堀切 上に戻る

北曲輪の北側は東西の道になっています。
上に橋が架かっています。
これはどう見ても堀切です。
しかもとんでもない規模(*´▽`*)
切岸も鋭く登れません。
城の構造には一々意味がありますネ^^
大田原城【6】
【6】東側の横堀 上に戻る

本丸の東側の下です。
急傾斜な切岸の下に細い通路になっています。
左側の下も急傾斜で、川が流れています。
ということは、こっち側はここしか通れません。
それを上から狙い撃ちに出来るという訳デスネ。
大田原城【7】
【7】南側の堀切 上に戻る

本丸南側の堀切です。
ブッツリと断ち切っています。
独立丘陵をぶった斬っています。
これが無ければ普通にまっすぐ繋がっていました。
本丸入口を固めるため、敢えて断ち切ったようです。
大田原城【8】
【8】二の丸 上に戻る

本丸の南側からぐるっと曲がって西側へ。
その通り道にあるのが二の丸です。
サブの曲輪というよりも、大きな枡形の一部のようです。
ここよりも二の丸っぽいのが北にありますが・・・
間違っても政所や居館は無さそうな雰囲気です。
往時から二の丸と呼ばれていたのでしょうか。
大田原城【9】
【9】二の丸の土塁 上に戻る

二ノ丸の外周です。
ほんの少しだけ土が盛られています。
見た感じ、往時はこの3倍は幅がありそうです。
少しだけ残したのは公園化の際でしょうか。
おそらく転落防止のためフェンスでも張ったのかも。
その辺は今も昔も変わらないのかも。
大田原城【10】
【10】稲荷曲輪 上に戻る

南側の出っ張りの上です。
ただの細尾根ではなく、削平された空間があります。
図ではここは稲荷曲輪と書かれています。
西側に下りる山道があります。
三ノ丸から上がってくる道です。
搦手のような位置づけでしょうか。
大田原城【11】
【11】本丸 上に戻る

写真で見ると、ただの広場にしか見えません。
でも、それ位の規模があるという事でもあります。
木々で見えませんが、高い土塁で囲まれています。
平地にしか見えませんが、独立丘陵の上です。
よくもまぁ、こんなデケェ空間をこさえたものです!
大田原城【12】
【12】本丸西側の切岸 上に戻る

本丸を囲む高土塁の外側です。
かなりの急角度です。
下に広い帯曲輪があり、元はその外側に繋がってそうです。
こうして見ると、かなりしっかり削っています。
こんな角度は、壁チョロな私でも登れません。
大田原城【13】
【13】大手門 上に戻る

本丸北側の虎口が大手門です。
枡形と坂のダブルですね!
この傾斜、走って登るのは超キツイです。
しかも、両脇をイイ高さの土塁で囲んでいます。
市街地の真ん中にありながら、守りの固いお城です。
大田原城【14】
【14】大手門脇の土塁 上に戻る

というか、本丸はこんな高さの土塁に囲まれています。
元々の地形が想像出来ませんが、かなり掘ってますね!
掘り返した土木量は相当なものだった筈です。
大田原城【15】
【15】帯曲輪? 説明板 上に戻る

坂下門から二の丸へと続く道です。
右側にはまだ平坦面が続いています。
こう見えて結構幅は広いです。
作事場の続きかもしれません。
左上に見えるちょっとした段が横堀のようです。
ここは敵を留めて上から狙い撃ちにする場所かもしれません。
大田原城【16】
【16】坂下門跡 上に戻る

右がクネっと直角に曲がっています。
そして、外側には土の壁が。
もしかしても何も、どう見ても枡形虎口です。
案の定、足元に「坂下門」の石碑がありました。
周りが市街地化しても、こうして痕跡が見られます。
流石にココを壊して家を建てる人は居ませんでしたか。
大田原城【17】
【17】三日月堀 上に戻る

と呼んではいます。
でも、往時はずっとつながっていました。
周りが埋められ、残ったのが三日月形というだけです。
でも、こうして一部分だけでも残ったのが貴重!
葉っぱが無ければもうちょっとよく見えますが。
訪ねる季節がちょっとだけ遅かったかもです。


◆歴史◆

1545年、大田原資清により築かれました

大田原氏は那須七騎の一家です。
武蔵七党の一つ・丹党阿保氏の後裔とされます。
室町時代初期に大俵康清が下野に下向。
水口館を拠点とし、那須氏に仕官したとされます。
大田原資清はその5代子孫です。
1518年、大関宗増の讒言により失脚。
出家し越前国永平寺に潜んだとされます。
24年後の1542年、大関宗増の嫡男・大関増次を奇襲。
自らの長男・高増を大関宗増の養嗣子とさせました。
さらには福原氏にも次男・資孝を送り込みます。
この頃に大俵資清は姓を「大田原」に改めました。
那須七騎の内、三家を兄弟で占めるようになります。
以後、那須家中で絶大な権力を振るいます。

1590年、孫の大田原晴清が小田原征伐に参陣。
7100石の領地を安堵されました。
1600年、関ヶ原の戦では上杉軍に備える最前線となります。
戦後、功により800石加増。
更に改易された相馬氏の城を守備した功で4500石加増。
1万2400石の大名となります。
大田原氏は移封が無く、明治まで大田原藩主として続きます。

1871年、廃藩置県により廃城となりました

戊辰戦争で、大田原藩は新政府軍に味方しました。
そのため1868年、会津藩の攻撃を受け大田原城が焼失しました。
火薬庫の爆発により落城は免れたと、説明板にあります。
落城はしなかったんですね!
翌年の版籍奉還後、藩主は住居を移しています。
それでも藩庁は大田原城だったようです。
1871年4月、廃藩置県により大田原藩は大田原県となります。
この年に廃城なので、県庁は別の所かと思いましたが・・・
『栃木県史』によれば「本庁那須郡大田原旧郭内ニアリ」です。
県庁なので、お城ではなくなったという事でしょうか。
同年11月、大田原県は宇都宮県に統合されました。
機能を失ったのはこの時かもしれません。


所在地:栃木県大田原市元町 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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