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黒羽城/栃木県大田原市

黒羽城は、大関氏の居城でした。
訪問日は2022年4月9日です。

黒羽城【写真位置】大きな地図を表示
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黒羽城は、別名・九鶴城とも呼ばれます。
西の那珂川と東の松葉川に挟まれた丘陵上にありました。
北端部に八幡館跡があり、大関高増により拡張されました。
南端部は大雄寺で、栃木県北部では最大級の城でした。
一部破壊されているものの、堀や土塁などが良く残っています。
三郭には松尾芭蕉の館があります。
松尾芭蕉がどこよりも長い14日滞在したことに拠ります。
黒羽城【1】
【1】駐車場 上に戻る

城跡は公園になっており、立派な駐車場があります。
大きな公園なので、いつもの貸切とは行かず。
位置的には主郭のすぐ東脇です。
なので、ここも曲輪だったのでしょう。
黒羽城【2】
【2】駐車場脇の土塁 上に戻る

駐車場が全面舗装ですが・・・
端は土塁が残っています。
よく残してくれたもんです。
土塁の裏には水堀が少し残っています。
黒羽城【3】
【3】二郭跡にある体育館 上に戻る

とは言え、やられちゃってる所もあります。
それが主郭の北側にあった二郭です。
全面舗装され、体育館だけじゃなく別の建物も。
これだけで済んだのが奇跡ですね。
体育館の隣に空き地があればグラウンドも!
そうなれば主郭も無事では済まなかったでしょうし。
黒羽城【4】
【4】主郭の虎口 上に戻る

駐車場からすぐの階段を上がった所が虎口です。
ここに櫓門でも構えそうな雰囲気です。
でも、ほぼ剥き出しなんですよね。
すぐ脇に道が通ってますし。
本来ならこの前に枡形でもあったような感じです。
黒羽城【5】
【5】横堀 上に戻る

虎口の脇からは、横堀が伸びています。
ココもよく残りましたネ!
黒羽城【6】
【6】主郭 上に戻る

主郭です。
広いです。
桜が綺麗です。
お花見に良さそうですね。
一面ブルーシートだと歩きづらかったですが。
桜の木がこの倍あったらそうなってたかも。
黒羽城【7】
【7】主郭の虎口 説明板 上に戻る

先程とは角度を変えて撮っています。
土塁の配置がやや複雑です。
右奥には先程の横堀があります。
そして、この視点の背後にも大きな堀が。
黒羽城【8】
【8】主郭と三郭の間の堀① 上に戻る

こんな感じで(^o^)
主郭と三郭を隔てている堀です。
流石は大関さん!
スケールがデカイです。
でもこれ、二重堀なんです。
向こう側にも同じ位のがもう1本あります。
黒羽城【9】
【9】主郭西側の横堀 上に戻る

大きな堀を辿ると、西側に横堀があります。
西側は急斜面ですが、一段置く感じです。
切岸を鋭くして出来た段差なのかもしれません。
黒羽城【10】
【10】主郭と三郭の間の土塁 上に戻る

主郭と三郭の間は二重の堀で仕切られています。
その間にあるのは「土塁」らしいですが・・・
普通なら曲輪と呼ばれそうな規模です。
その三郭側には土の壁が。
土塁の上に土塁がある、という事ですナ。
黒羽城【11】
【11】主郭と三郭の間の堀切② 上に戻る

ということで、二重の三郭側の堀です。
台地をぶった斬る巨大な堀です(*´ω`*)
黒羽城【12】
【12】西へ下る道 上に戻る

ただ、この堀底から道が西へ。
地図では西の那珂川に下りる道が描かれています。
みっしり藪ですが、三郭の西側にはこんな平坦地が。
ここも曲輪だったのかもしれません。
黒羽城【13】
【13】三郭南側の堀 上に戻る

三郭の南側も堀で分断されています。
ここまで来るのも大変でしたが。
ご覧の通りで、放置された竹林です。
密生して倒れまくってます。
歩きにくいったらありゃしない♪
黒羽城【14】
【14】三郭の南の曲輪 上に戻る

三郭の南にも平坦地が。
色んな縄張図を見ても特に何も記載無し。
敢えて言えば四郭でしょうか。
そう呼びたくなる何も無い平坦地があります。
黒羽城【15】
【15】堀切 上に戻る

三郭の1つ南の曲輪の南端にある堀切です。
もうこの辺りは色々ノーマークな感じ。
竹が伸び放題枯れ放題です。
黒羽城【16】
【16】堀切からの竪堀(西) 上に戻る

「そこに堀があるから」と辿りました。
ココはそうでもないですが、歩きづらかったです。
一歩一歩どう進めばいいのやら。
鶯の鳴き声が「もぉいやだ♪」に聞こえる程に。
それでも何が何でもこの堀を辿る!で進みました。
我ながら根性出した堀探索です。
黒羽城【17】
【17】堀切からの竪堀(東) 上に戻る

また横方向の堀だ!ということで曲がりました。
東側へ進むと、藪が貼れて視界が拓けました。
めちゃ歩きやすいです。
もう戻りたくね!と思いましたが・・・
このまま下ると大雄寺の境内へ。
小心者なので、再び元の竹藪へ戻ったのでした。
黒羽城【18】
【18】土塁と水堀の標柱 上に戻る

うぉぉ、くぁぁと枯れ竹藪の堀跡を・・・
三郭南端の横堀まで戻り表の道へ。
ようやくヒトらしい道に戻りました。
あとは駐車場へ戻るだけです。
道端には土塁・水堀跡の標柱が。
もう怖い物なんて無ぇ!ということで進みます。
黒羽城【19】
【19】稲荷社にある土塁 上に戻る

標柱から入った所は稲荷神社でした。
流石に祀られているだけあって歩きやすい!
そしてちゃんと土塁も拝むことが出来ました。
黒羽城【20】
【20】水堀 上に戻る

そして、道端から見える水堀です。
向こう側は駐車場です。
色々開発されてはいますが、何だかんだで残ってます。
藪が恋しい方にもちゃんと楽しめる黒羽城でした。


◆歴史◆

1576年、大関高増により築かれました

と一般的に言われます。
が、元々ココには八幡館がありました。
八幡館は那須家重臣・角田氏の本拠地です。
角田氏は古くから那須家に従っていました。
三浦介の末裔で、源頼朝が那須で巻狩した時に土着したとされます。
その角田氏が居館としたのが八幡館でした。
大関氏は武蔵七党の丹党の末裔と称しています。
しかし、近年では常陸国の小栗氏から派生した説が濃厚です。
その初代の生母が、角田氏から嫁いだ娘でした。
母方の祖父である角田氏は、孫を引き取り育てたそうです。
その子は小栗庄大関郷に住み、やがて大関姓を名乗りました。
大関氏は、角田氏の血を引き継ぐ一族だったのです。
・・・大関高増は大田原氏から入った養子でしたけど。
大関高増が黒羽城を築いたため、角田氏は奥沢館へ移ります。
以後は奥沢姓へ改姓し、大関氏に従いました。

1590年、大名として独立しました

豊臣秀吉の小田原征伐は、東国の勢力図を書き換えました。
ココ下野国も例外ではありません。
大関高増の主家・那須家も、様子見をして改易されました。
大関高増らは小田原への参陣を勧めたそうですが。
このままでは改易されると、主家を見限り参陣。
小田原の向こう側の沼津まで出向く念の入れようでした。
そのため、大関高増は1万3千石を安堵されます。
一方、参陣を拒んだ那須資晴は改易されました。
甥の大田原晴清が謝罪し、何とか5千石を許されています。
大関氏は大田原氏とともに関ヶ原の戦で上杉家を監視。
その功として7千石加増され、2万石となりました。
江戸時代に分知し1万8千石となりましたが・・・
国替えされることなく、明治時代まで続きました。
戊辰戦争では、黒羽藩は維新政府軍につきます。
1871年、廃藩置県により廃城となりました。


所在地:栃木県大田原市前田 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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