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亀山城/栃木県大田原市

亀山城は、上那須家終焉の舞台となりました。
訪問日は2022年4月9日です。

亀山城【写真位置】大きな地図を表示
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亀山城は、別名・山田城とも呼ばれています。
大御所様の仰せの通り、南東の石切場から登りました。
確かにそれで城跡には辿り着けます。
しかし、こちら側には虎口がありませんでした。
明らかに往時の登城ルートではありません。
大多数の諸兄は、北西の廃屋付近から登っています。
そこから斜面を登ると、主郭北側の虎口に通じています。
でも、私は登城口は別にあると思っています。
城跡の北側には、広大な平坦地が数段連なっています。
しかも、1か所だけ対岸から登れる場所があります。
ココが虎口で、平坦地群を通るのではないかと思いました。
学の無い一匹の城キチの戯言ではありますが。
実際に見て感じたままを書こうと思います。
亀山城【1】
【1】南側の未舗装路 上に戻る

まずは先人の紹介通り、南側の未舗装路から城跡へ。
普通に見ても、どっちに進むかわからない分岐です。
亀山城【2】
【2】石切場 上に戻る

まぁでも、地図の通りということで。
ザックリ石切場に到着です。
写真では伝わりませんが・・・
垂直の切り口は10メートル以上あります。
真下に立って見上げると、首が痛くなります。
亀山城【3】
【3】上から見た石切場 上に戻る

山上へは、写真左上の斜面を登りました。
道はありませんが、難なく登れます。
登ってからは、石の切断面に沿って進みます。
大御所様は下を覗き込んでおられましたが・・・
私も(*´σー`)
超危ないので、おススメ出来ません。
亀山城【4】
【4】自然地形 上に戻る

山上に上がると、傾斜はありません。
しかし、人の手が加わった様子がありません。
ココ本当に城跡?という位に自然地形です。
背後に備えるため、堀切があっていいのですが。
コチラ側はその必要も無いという事でしょうか。
亀山城【5】
【5】石を切り出した跡? 上に戻る

城跡方向に延びる稜線をひたすら辿ります。
幅は広くないものの、ほぼ水平です。
そんな調子でしたが、突如地面に窪みが。
稜線の半分を削る感じの長方形です。
ここだけ幅が狭まります。
明らかに人工的ですが、整い過ぎです。
ここでも石を切ったようです。
亀山城【6】
【6】土塁 上に戻る

そこからすぐに、稜線が急に盛り上がります。
進行方向から見て左右に遮る感じに。
上がって見ると土塁でした。
石切場方向には虎口はありません。
普通にここで空間を区切っています。
亀山城【7】
【7】主郭 上に戻る

土塁の内側は広い平坦地です。
ここが亀山城の主郭です。
土塁に一周囲まれています。
亀山城【8】
【8】虎口 上に戻る

そんな土塁が1か所だけ窪んでいます。
北側です。
ココから左に折れる感じで掘られています。
見るからにここが主郭への入口です。
だとすれば、大手口はこっちというのが自然。
ならばどこに通じているのか?と思うのでした。
亀山城【9】
【9】堀切 上に戻る

虎口から、道と思しき所を下ります。
飽くまで、道を辿ろうという感じで。
北側の斜面には、所々小さな段があります。
中にはこんな感じの所まで。
明らかに人の手が加わっています。
これは是非とも突き止めねば!
亀山城【10】
【10】虎口? 上に戻る

尾根を下った道は左側へ。
ここから斜面に沿って道があります。
この道を辿ると竹林へ。
亀山城【11】
【11】廃屋の裏に出ました 上に戻る

さらに下ると廃屋の裏に出ました。
これだけ荒れてると流石に住んでないでしょう。
どうにかすれば、表の道に出られそうです。
亀山城【12】
【12】曲輪群? 上に戻る

麓から主郭に通じる道を辿りました。
でも、どうしても気になる光景が。
10の下る道の反対側に、広い平地が見えました。
私にはどうにも曲輪に見えて仕方がありません。
廃屋裏から登り、今度は右側へ。
すると、かなり広い平坦地が連なっています。
東西に細長い平坦面が、数段続いています。
ただ、土塁や虎口といったものは見られず。
古い年代のお城なら、こういう曲輪もありでしょう。
亀山城【13】
【13】虎口? 上に戻る

そんな段々の平坦面を見て「畑?」とも思いました。
そのまま進むと、ザックリした所に行き当たります。
周囲の地形から、明らかに人の手が加わっています。
他は急な傾斜なので、下りる所はココしかありません。
亀山城【14】
【14】橋 上に戻る

溝に沿って下りたら、ココに出ました。
正面に橋があります。
という事で、ココからも城跡に行けます。
城の北側には、東西に川が流れています。
たぶん、堀の役割を果たしたのでしょう。
ただ、それにしては城側の方が低いです。
もし堀なら、向こう側を低くせねば!です。
亀山城【15】
【15】虎口? 上に戻る

下りて来た溝です。
橋側からはこう見えます。
剥き出しの岩は、人の手で削られた切岸でしょうか。
平坦地群の下には切岸が続くので、直接上がれません。
溝は右に曲がって、先程の平坦地群へ。
ただ、この谷状の地形は真っすぐ伸びています。
等高線でもこっち側の傾斜が緩くなっています。
もしかしたら、何かしら遺構があるかもしれません。


◆歴史◆

鎌倉時代初期に片田義隆により築かれました

片田義隆は、那須家初代・那須資隆の八男です。
ということで、那須与一の兄です。
「与一」は十余一ということで十一男なので。
源平合戦の際、那須資隆の子の内9人が平家方でした。
源氏方だったのは十男の那須為隆と十一男の与一だけでした。
那須与一は終戦後、各地に逃れていた9人の兄を赦免。
各地に領地を与え、一族で那須家を支える体制を築きました。
片田義隆はその一人ということになります。
平時は山田館(大関城)に居住し、亀山城は詰城でした。
仁治年間(1240-43年)に片平城を築いて移りました。
以後は片平姓を名乗るようになります。

1514年、上那須家が断絶しました

那須家では何度か分断がありました。
その1つがこの年に終わりました。
両者共倒れという結末で。
争っていたのは那須資永と山田資久です。
2人は先代当主・那須資親の養子と実子です。
那須資親は後継ぎに恵まれず、養子を迎えていました。
養子は白河結城氏の次男で、娘婿として来ました。
しかしその後、那須資親が男児を授かりました。
これが、山田資久です。
山田資久は、3歳の時に亀山城に移されました。
那須資親は
・山田資久を次の当主にする
・那須資永を撃ち滅ぼせ
という遺言を残して世を去りました。
この遺言に従い、大田原資清らが那須資永の居城に侵攻。
那須資永は兵を募るも集まらず。
守りが薄かった亀山城から、山田資久を連れ出しました。
幼い義弟を人質にとったものの、討伐勢は退かず。
那須資永は山田資久を殺害した後、自害しました。
これにより上那須家は断絶しました。
以後は下那須家の那須資房が当主となります。

那須政資が城主になりました

1516年、那須政資が亀山城の城主になりました。
那須政資は、那須資房の子です。
先年討伐の末自害した那須資永は、結城顕頼の弟でした。
そのため、那須氏と白河結城氏の関係が悪化したのでした。
白河結城氏からの侵攻に備えての配置でした。
結城顕頼は1520年、岩城由隆を誘って那須政資を攻撃。
この攻撃は宇都宮氏に援軍を依頼し撃退しました。
岩城由隆は翌年、宇都宮忠綱や小田政治とともに再度侵攻。
那須資房がより堅固な烏山城に籠り、岩城軍らは撤退します。
那須資房は、佐竹氏に仲介を依頼し岩城由隆と和睦。
その後、那須政資が家督を継いで烏山城に移りました。
以後の亀山城については不明です。


所在地:栃木県大田原市片田 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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