2023/09/09
岩谷要害/栃木県大田原市
岩谷要害は、曲輪が真っすぐ連なる連郭式です。
訪問日は2022年4月2日です。
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・・・としか言いようがありません。
台地上に真っすぐに曲輪が並んでいます。
綺麗に堀で区画されて(^^)。
ということで、防御力はあまり高くなさそうです。
遺構は綺麗に残っています(*´▽`*) |
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【1】岩谷観音前 上に戻る
すぐ手前まで、クルマで上がれます。
私の「綺麗な道専用」バイクでも大丈夫でした^^
しかも、いつでも貸し切りです。
たぶん(*・u<*) |
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【2】竪堀 上に戻る
とりあえず上がって来たもののどこから登る?
そんな感じで手前側から見て回りました。
すると、斜面に一直線の溝が。
これ、竪堀ですよね?
でも、ここから登るのはチョット違うと思いスルー |
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【3】登り口 上に戻る
斜面をじぃっと見て回り遂に奥へ。
すると、お地蔵様の所に階段があります。
お地蔵さまはすぐそこですが、背後には緩い尾根が。
よく見ると、そこに踏み跡がありました。
ということで、ここからアタック開始です。 |
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【4】虎口っぽい所 上に戻る
そうたいして登ることも無く上に平坦面に着きました。
すると、人工的な細長い窪みがあります。
少し高い所へ通じる窪みは通路のよう。
もしかしたら、東側の虎口かもです。 |
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【5】横堀 上に戻る
道を進むと、綺麗に整った場所に着きます。
ココから先は、曲輪が堀に囲まれています。
最初の曲輪がココです。
横方向に切ってるので、堀切と呼びたくなります。
でも、斜面に竪堀が伸びないので横堀ですよね。 |
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【6】横堀 上に戻る
一方、連なる曲輪に沿っている横堀です。
まごうこと無き横堀です(*^-^*)
コチラは端から端まで真っすぐ伸びています。 |
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【7】横堀 上に戻る
みんな「横堀」なので紛らわしいですが・・・
曲輪と曲輪を隔てる方の横堀 vol.2です。
全般的に杉林なので下草は少なめです。
でも、曲輪内など陽当たりの良い場所はこんな感じです。 |
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【8】横堀 上に戻る
曲輪と曲輪を隔てる方の横堀 vol.3です。
某大先生の縄張図で「この辺?」という所にあります。
辿ってみましたが、痕跡レベルの浅さでした。 |
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【9】横堀 上に戻る
それでも、奥側の縦方向の横堀はこうです。
綺麗にくっきり走っています。
西側は竹林なので、下草はほぼ無し。
とっても見やすいです。 |
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【10】堀切 上に戻る
さらに西へ進むと、大きな堀があります。
こちらは斜面に竪堀が落ちるので堀切です。
それまでの横堀と違い、地面を掘り下げています。 |
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【11】麓へ下りて行く道 上に戻る
堀切の端に行くと、下りて行く道があります。
この先には行ってないので、どうなってるかは?です。
私はお地蔵様の脇からよじ登りましたが・・・
こっちからなら、普通に登れたかもしれません。 |
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【12】土塁 上に戻る
堀切の先も曲輪のようで、端に土塁があります。
そういえば、連なってる方では見かけませんでした。
こちら側は堀切や土塁などがあります。
防御正面ということになるのでしょうか。 |
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【13】西端 上に戻る
土塁の西側にも平坦面は続きます。
しかし、端がどこなのかがあやふやです。
削平もやや甘くなり、緩やかな傾斜になっています。
もしかしたら、ここら辺はまだ造り掛けかもですが。
こういう造りというのも無きにしも非ず。
どうなんでしょう? |
◆歴史◆
那須家臣・角田氏の城でした。
角田氏は、伝承では三浦介の末裔とされます。
源頼朝が鹿狩りに来た際に、当地に土着したと伝わります。
源頼朝が那須で鹿狩りをしたのは1193年3月~4月。
22日もの間、盛大に行われています。
「三浦介」は大族・三浦氏当主なので、当人ではないでしょう。
息子や孫の一人なら「三浦介の子孫」で正解ですが。
この時那須に土着した三浦一族により築かれたとされます。
角田氏は、戦国時代に大関氏に従います。
以後は奥沢館に移り、奥沢姓を名乗りました。
城跡には岩谷観音堂があります。
藩主の大関氏が篤く崇敬していました。
諸兄のサイトでは、長くてもココまでです。
大関氏と角田氏の関係
角田氏ってどんな一族?
そう思って深堀りしたら出て来ました。
主となった大関氏の出自が。
表向きは武蔵七党の丹党の末裔となっています。
しかし、実は常陸の小栗氏出身とする説が濃厚です。
その小栗氏というのが、角田氏の娘の嫁ぎ先でした。
那須頼資は平安時代末から鎌倉時代初期の人物です。
常陸国の小栗頼重に娘を嫁がせています。
その時に侍女として付き添ったのが、角田氏の娘でした。
角田氏の娘は、小栗頼重の一族・小栗七郎に嫁しました。
その子・小栗与一は、小栗庄大関郷に住み・・・
大関姓を名乗るようになりました。
大関氏が築いた黒羽城は、元々は角田氏の本拠地でした。
角田氏はこの時に奥沢館に移り、改姓しています。
だとすれば、大関氏が角田氏を従えたのは必然です。
角田氏の改姓も、大関氏の出自改竄を隠すため?
何だか色々出て来るものですね。
所在地:栃木県大田原市堀之内 GPS軌跡ダウンロードページ
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