2013/10/06
金窪城/埼玉県上里町
金窪城は群馬県との県境近くにありました。訪問日は2012年5月26日です。

▲県道392号を東から
地図でも場所がわかりづらいので写真で。まずは県道392号を東(本庄)から走った場合。写真の所で右折します。

▲県道392号を西から
次は県道392号を群馬側から走った場合。写真の所で左折します。上の写真と同じ交差点を反対から見ただけですがw

▲萌美保育園
県道から入った道をちょっと走ると、写真の保育園が現れます。保育園の敷地の角っこを良く見ると・・・

▲館址入・・・
「館址入」と書かれた小さな碑があります。なかなか気付かないと思いますがwこの角を左に曲がると、館の跡と思われる住宅に突っ込みます。普通に城址を見たい方はそのまま真っ直ぐ進みましょう。

▲金窪城址公園
1つか2つ先の道を左折すると、写真の公園に辿り着きます。この公園、名前は城址公園ですが、なんにもありません。いろんなサイトで見た城址碑やら土塁はいづこ・・・

▲城址碑と説明板
と思って回れ右したらありました!緑に囲まれた城址碑と説明板が!しかし、なぜこんなに見にくい場所にw

▲道沿いの土塁
そのまま道を進むと、道の左側は土が盛られています。たぶん、遺構の土塁ではないかと思います。

▲藪の中の土塁
城址碑裏の藪の中にも土を盛った土塁らしきものがあります。藪の向こうは一般の民家なので、やり過ぎないようにしましょう。
◆歴史◆
金窪城は治承年間(1177~81年の間)に、加治家李により築かれました。
加治氏は関東七党の丹党に属し、秩父が本拠地でした。加治家李は鎌倉幕府御家人として重用され、源頼朝が上洛の鎌倉幕府の随兵となっています。
元弘年間(1331-34年)新田義貞が重臣・畑時能に改修させました。
新田義貞は鎌倉幕府を直接滅ぼした、足利尊氏のライバルでした。その後尊氏と争いになり、1338年に越前で討死しています。畑時能は新田四天王の1人で、武勇に優れていました。
金窪城を改修した時期は、新田義貞が鎌倉幕府に叛旗を翻した時でした。鎌倉幕府は上方で倒幕活動をする楠木正成と戦っていました。義貞も上方で戦っていましたが、途中で無断帰国していました。
そこへ戦費調達の名目で、鎌倉幕府から途方も無い税の取立てがありました。これでプッツン切れた義貞は徴税の使者を斬り、倒幕の兵を挙げました。
寛正年間(1460~66年の間)、斎藤実盛の末裔・斎藤盛光が城主となりました。
斎藤実盛は平安時代、源為義・義朝親子が反目していた頃の武将です。はじめは源義朝に従っていましたが、のち地理的に近い源為義の次男・義賢に仕えました。両者は関東で熾烈な勢力争いを繰り広げていましたが・・・
1155年、義朝の子・義平が義賢の館を急襲し、義賢を討ち取ってしまいました。この時、義賢の子・駒王丸を、乳母の夫・信濃国の中原兼遠へ届けたのが実盛でした。駒王丸はのちに木曽義仲となります。
斎藤盛光は時期と地理的に山内上杉氏に仕えていたと思われます。以後の経緯はわかりませんが、曾孫の定利は後北条氏に仕えました。
1582年、滝川一益により金窪城が攻め落とされました。
本能寺の変により織田信長が討たれました。信長の嫡男・信忠も一緒に討たれたため、一時織田氏は当主不在の状態となりました。武田勝頼が滅ぼされたばかりであり、空白地帯となった甲斐・信濃をめぐる争いが起きました。
そこで取り放題の織田領を狙って北条氏直が攻めてきました。斎藤氏は後北条方として参戦しましたが、神流川の戦いで一族そろって討死しました。戦い自体は後北条氏が圧勝したのですが・・・
この戦いに先立って、金窪城が滝川軍によって攻め落とされました。おそらく、地理的に近いため味方につくよう頼み、断られた腹いせなのかもしれません。
1590年、今度は後北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされました。後北条氏の旧領には徳川家康が移ってきました。
その翌年、川窪信俊に金窪の地が与えられました。
金窪に川窪氏って・・・w信俊は金窪城跡地に陣屋を建てました。川窪信俊は武田信玄の弟・信実の子で、槍の名手だったと伝わります。1582年に武田家滅亡後、徳川家康に仕えて安堵された領地が川窪だったそうです。
1698年、武田信貞が丹波へ移り、金窪の陣屋は廃されました。
武田信貞は川窪信俊の孫で、1662年に武田への復姓が許されました。1670年には幕府の大番頭になっています。
所在地:埼玉県児玉郡上里町金久保
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