2023/08/23
御着城/兵庫県姫路市
御着城は、赤松一族・小寺氏の城でした。
訪問日は2022年8月5日です。
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城跡は公園になっています。
そのため、ここを紹介される方は公園だけ載せます。
なので小さな城だと思っていましたが・・・
とんでもありません。
平城の宿命で市街化しています。
山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの城でした。
本丸のすぐ脇に国道2号が通っているのはそのためです。
外形は何となくわかります。
今回は諸兄が紹介しない痕跡を見て回りました。
北半分は道ではないので歩きませんでしたが。
今回載せてる軌跡は南半分だけです。
右上端の水路は外堀の跡です。
単純計算で、北側にも同じだけあったと思って下さい。 |
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【1】駐車場があります 上に戻る
街中の公園なので、駐車場があります。
これは大変ありがたいです。
ちょっとだけ離れてますが近いです。
・・・ニホンゴがちょっと変です^^;
この地形はもしや土塁と堀の跡?
既に妄想全開です。 |
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【2】城跡公園 上に戻る
城跡公園が御着城の本丸でした。
城郭風の建物は、市役所の出張所です。
一般的にここだけ城跡として紹介されます。
なので小さな公園だけなのかと誤解されがちです。
私はそんな誤解を是非解きたい!
とまで意気込んでる訳でもないですが(´∀`) |
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【3】石碑 上に戻る
こんな風にわかりやすいオブジェがあります。
まぁでも、何も見えないとこれだけなんですよね。
来て5分で次行っちゃう気持ちもわかります。 |
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でも、この図を見て下さい。
カラーの図が一般的なイメージ。
白黒の図が本来の姿です。
めちゃくちゃデカイです。
ということで、その痕跡と辿りました。 |
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【5】天川橋 上に戻る
城郭風建物の裏にこの石橋があります。
あったのはココではなく、移築されています。
名前の通り天川に架かっていました。
天川は御着城の外堀を兼ねていました。
ということは、城の入口にあった?
橋の下の窪みは堀跡です。
何だかココでも虐げられています( ノД`) |
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【6】堀跡 上に戻る
とは言え、大抵の堀跡はこんな感じです。
お城の時から、堀に沿って建物はあったでしょう。
だから、堀を埋めてもその形は残ります。
それが一部の城キチのエジキとなります(*´ω`*) |
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【7】天川 上に戻る
城跡の西から南に流れているのが天川です。
外堀にしただけあり、切岸が垂直ですね! |
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【8】小寺大明神 上に戻る
城跡公園から道を挟んで反対側に小さな祠が。
城跡にある神社には、挨拶を欠かしません。
で、何神社かと思えば小寺大明神でした。
思っきり城主様絡みでしたヾ(*´∀`*)ノ
ココは築城当初の本丸跡だそうです。 |
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【9】天川の旧流 上に戻る
南側で道が少し北に反ってる所です。
ここが天川の旧流路=外堀跡です。
あの大きな川がここを?と思いますが・・・
左側が川だったように感じられる地形です。 |
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【10】堀跡の水路 上に戻る
堀跡は住宅街の中にも残っています。
もはやどっちが堀だった?ですが。
平城の堀跡はよくこんな感じになっています。
平地では水路が貴重だったのでしょうか。 |
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【11】堀跡の水路 上に戻る
外堀跡はそのまま北上。
奥の車が走ってる所が国道2号です。
ここは左側が切岸で、右側が堀跡でしょうか。
水路を地図上に描くと、城の形が浮き上がってきます^^ |
◆歴史◆
1519年、小寺政隆により築かれました。
小寺氏は赤松一族・宇野氏の庶流です。
室町時代初期に派生し、姫路城主を務めていました。
とは言っても、当時の姫路城は小さなお城でした。
赤松氏は嘉吉の乱で一時没落。
神璽奪回の際にも赤松氏に従いました。
赤松家が播磨守護に復帰後も家中は乱れ・・・
備前守護代・浦上村宗が赤松家中で台頭しました。
小寺政隆が御着城を築いたのはそんな時期でした。
赤松義村は2人の宿老、3人の側近による体制を構築。
この2人の宿老が小寺則職と浦上村宗でした。
小寺則職は小寺政隆の子で、姫路城主です。
御着城は小寺政隆の隠居城だったと考えられています。
この5人の中で浦上村宗は孤立。
露骨に浦上村宗の勢力を削ぎに出たのでした。
出仕停止となった浦上村宗は備前国で籠城。
赤松義村が討伐軍を出したのが1519年でした。
1530年、小寺政隆が討死しました
赤松氏と浦上氏の争いは果てしなく続きました。
浦上氏の専横は、赤松氏の傀儡が必要でした。
そのため、傀儡当主が成長→排斥の繰り返しでした。
小寺政隆は、浦上村宗攻めのため庄山城に居ました。
しかし、逆襲に遭い討死しています。
子の小寺則職が家督を継ぎ、御着城主となりました。
小寺政隆は赤松家寄りでしたが、小寺則職は違いました。
だからと言って浦上村宗寄りでもありませんが。
尼子晴久が播磨に攻め込んだ際は尼子方でした。
一緒に攻めて赤松晴政を追い詰めています。
1540年に和解し、赤松晴政は播磨に復帰しています。
1579年、廃城となりました
1545年、小寺政職が家督を継ぎ城主となりました。
小寺政職は赤松家を離れ、独立勢力となります。
そんな小寺政職が頼りにしたのが小寺孝隆でした。
後の黒田官兵衛です。
姪を娶らせ小寺姓を与えるなど、厚遇しました。
小寺孝隆の策に従い、織田信長に従属。
1577年には英賀合戦で毛利水軍を破っています。
しかし、荒木村重や別所長治らが相次いで離反。
かれらに影響され、小寺政職も毛利方に鞍替えします。
そのため織田軍の羽柴秀吉に攻められ落城。
小寺政職は、毛利領の備後国鞆の浦へ逃がれました。
主が去った小寺孝隆は、羽柴秀吉の軍師となります。
江戸時代には御着本陣がありました
「本陣」は、江戸時代以降の宿場です。
大名や旗本、勅使など身分の高い人が利用しました。
敷地約2100坪、部屋数30室の内、畳敷きが26室。
建坪約130坪の平屋建と伝わります。
小寺政職の子孫である大庄屋・天川氏が運営。
明治時代の中頃まで続きました。
本陣があったことで、城の名残が残ったのかもしれません。
所在地:兵庫県姫路市御国野町御着 GPS軌跡ダウンロードページ
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