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感状山城/兵庫県相生市

感状山城は、石垣の多い山城です。
訪問日は2022年8月5日です。

感状山城【写真位置】大きな地図を表示

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感状山城【1】
【1】羅漢の里駐車場付近 上に戻る

感状山城へ行くには、羅漢の里が目印になります。
道々で「羅漢」と付く案内がちょこちょこあります。
今はナビに曳かれて一発で辿り着けますけどネ^^
ただ、駐車場はちょっとわかりにくいかも。
川を渡ってすぐの、フェンスの所です。
ストビューで一度見ておいた方が良いと思います。
登山道へは駐車場から南に川を渡ります。
そして、写真の右上に向かいます。
感状山城【2】
【2】登城口 説明板 上に戻る

しばらく川沿いに進むと、派手にあります。
西播磨の例の幟も沢山^^
真新しい説明板は、図も充実しています。
どこもかしこもこうだったらなぁ(+_+)
拙いブログで我慢して下さい^^;
感状山城【3】
【3】石垣 上に戻る

石垣がいっぱいある所という事でウキウキ
登山道にも早速ありました。
でも、城跡はまだ先だし・・・
積み方がちょっとビミョーなんですよね。
それでも、城キチは少しだけHPが回復します。
感状山城【4】
【4】虎口? 上に戻る

そして、HPが枯渇し掛けた頃にココに到着。
図もGPSも確認せず、勝手にヾ(*´∀`*)ノした所です。
後で確認すれば、城域はまだ先でした。
目のビョーキが侵攻したのかどうなのか・・・
虎口に見えてしまいます。
同じ症状の方、きっといますよね?
感状山城【5】
【5】石段 上に戻る

まだまだ図の城域の下ですが・・・
登山道は岩場にさしかかります。
これだけ岩があれば石垣出来ますよね!
しかも、丁度良い大きさのがゴロゴロ。
で、この石段は城の?それとも登山道の?
城キチ的には前者であって欲しいのですが。
感状山城【6】
【6】物見岩 上に戻る

半ロッククライミング気味に腿上げを繰り返し・・・
ようやくそれっぽい平坦地に辿り着きました。
木の立て札には「物見岩」と書かれています。
ようやく城内への侵入を果たしました!
といっても、これはどうみても石垣では・・・
自然地形を最大限活かした曲輪のようです。
感状山城【7】
【7】石垣 上に戻る

城内に入ると、至る所に石垣が。
だいぶ崩れてはいますが、明らかに石垣です^^
感状山城【8】
【8】倉庫跡 上に戻る

進路左前方にかなり広い平坦地が。
ここは倉庫の跡です。
かなり広いです。
こんなに広い山城なのに歴史不詳って・・・
こういう場合、大抵陣城だったりします。
感状山城【9】
【9】Ⅲ曲輪群の石垣 上に戻る

出曲輪の付け根にあるのがⅢ曲輪です。
段差の所には、しっかり石垣があります。
いつもはビシッとしたものばかりですが・・・
こうして歳月に埋もれたのも味わいがあります。
感状山城【10】
【10】Ⅰ曲輪 上に戻る

一番奥にあるのがI曲輪です。
山頂にあり、ここが主郭なのでしょう。
こうして見ても、石が並んでいます。
細かな段差にも、石を使ったのでしょう。
余りに石が多く、どけたのを並べたのと思う位に。
感状山城【11】
【11】石垣 上に戻る

しかし、それにしても崩れています。
積み方が雑だったという事はなさそうですが。
この感じは若桜鬼ヶ城や名護屋城と似ています。
つまり、破壊されたのでは?ということです。
破壊の理由は再利用されないこと。
羽柴軍が去り際にやったのかも。
感状山城【12】
【12】北Ⅱ曲輪の石垣 上に戻る

石垣が多いは多いですが、整ってるのは少ないです。
なのが、見つけたら余さず撮りました。
この石垣があるのは北Ⅱ曲輪です。
破壊が無ければ、そこらじゅうがこうだったのでは。
そう書きつつ、この石垣も端が欠けています。
感状山城【13】
【13】南Ⅱ曲輪の石垣 上に戻る

登城口の図で「石垣跡見所スポット」の所です。
それだけあって、そもそもが岩場っぽいです。
防御力を上げるため、最低限の手を加えた感じです。
破壊するにしても、元からだとあまり変わらないかも。
すっかり「破城があった」論者になってますが・・・
あくまで個人の感想デス(`・ω・´)!


◆歴史◆

築城時期や築城者は2つの説があります

1つめの説は鎌倉時代。
瓜生左衛門尉が築いたとする説です。
瓜生左衛門尉がどのような人物だったのかは?です。
実名がわかれば多少のツテが出来るのですが・・・
瓜生氏でググると、越前の瓜生氏がヒットします。
嵯峨流源氏で、承久の乱では宮方に属しました。
戦国時代には越前に瓜生孫左衛門尉という人物が居ました。
名前的にはこの氏族のような気がします。

地域の歴史で調べると、この辺りは矢野荘でした。
承久の乱以降は海老名氏が地頭となっています。
ただ、1295年(1297年?)に下地中分が行われています。
下地中分とは荘園を地頭と領家で分割することです。
これを行ったのが海老名氏と左右衛門尉行方です。
「左右衛門尉」も名前が近いですね!
領家方ですし。
領家は1309年、年貢未進と公田沽却の疑いで追放されます。
経済的に相当苦しかったようですね・・・
その領地は東寺に寄進されました。
瓜生氏が関わるとすればこの辺りまででしょうか。

赤松則祐が築いたとする説もあります

赤松則祐は赤松円心の三男です。
武勇伝が多く、赤松氏繁栄の礎となった人物です。
足利尊氏が九州から東上する際に活躍しました。
建武政権方の新田義貞をココで足止めしています。
足方尊氏はその間に勢力を蓄え、1336年に京を奪還しました。
赤松則祐はこの功により、感状を与えられたとされます。
父の赤松円心が播磨国守護となったのもこの時です。
名の由来がこの感状です。
なので、それ以前からあれば別の名前ということに。
赤松則祐は、瓜生氏の古城に籠ったという可能性もありますネ。

1351年、赤松家臣・飽間光泰に地頭職が譲られます。
それから10年程東寺との争いが続きました。
東寺の代官・祐尊は、赤松家との直接交渉に尽力。
1374年に赤松家と東寺の協力関係を確立しました。
1520年、浦上村宗が赤松義村を殺害。
東寺への年貢進納もこの時期に途絶えます。
以後は浦上氏→宇喜多氏の支配地となります。

1577年、羽柴軍に攻められ落城した説があります

こちらも説ですが、羽柴軍に攻められたようです。
この頃は羽柴軍が毛利領へ侵攻を始めた頃です。
宇喜多直家は毛利家と結び、羽柴軍に抵抗しました。
両軍が争奪戦を繰り返したのが上月城です。
上月城は感状山城から北西約16㎞にありました。
上月城を巡る戦いの中での落城だったようで・・・
そうすると、緒戦で羽柴軍に攻め落とされたことになります。
感状山城には堀切や土塁が無く、古い構造です。
宇喜多直家が羽柴方に寝返ったのは、1579年6月の事です。
総石垣なので、羽柴軍が陣城として使ったのかもしれません。


所在地:兵庫県相生市矢野町 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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