2023/07/23
上月城/兵庫県佐用町
上月城は、尼子家再興の夢が潰えたお城です。
訪問日は2022年8月5日です。
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上月城は、尼子家の再興が潰えた所です。
詳しくは、下の方に書いた歴史を参照下さい。
・・・大して詳しくもないですが。
有名な山城のようで、登城口前に資料館があります。
駐車場が広々としていて24時間開放されています。
なので、私のように夜明けに攻めることも可能です。
登城路も整備されており、10分程で本丸に着きます。
規模は、想像していたよりも大きくないです。
むしろ中の小ぐらいに感じられました。
小バエは本丸までは気になりませんでした。
二ノ丸へ向かう途中から急に増えます。
二ノ丸からの下山道は荒れており、夏場は避けた方が良いです。 |
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【1】上月歴史資料館 上に戻る
登城口前にある資料館です。
私が着いた時にはまだ開いてませんでした。
人見知りが激しいので入りませんが。
開館日は土日祝日ですが、年末年始は除きます。
開館時間は10時から16時の間。
入館料は大人200円、高校生150円、小中学生100円です。 |
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【2】登城口 上に戻る
登城口前には説明板と案内図が並びます。
とっても有難いです^^ |
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【3】堀切 上に戻る
山道は整備され、快適そのものです。
だいぶ登ると、足元に白い板が。
そこには「堀切」と書かれています。
かなり浅いというか凹みが無いような。
この板が無ければ腰曲輪かと思う所でした。 |
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【4】虎口? 上に戻る
そして間もなく城内に着きそうです。
右に回り込む道から曲輪内に入るのでしょう。
ということは虎口?と思いますが・・・
ちょっと守りが薄いような?
道も上から狙い撃ちするような感じではありません。
後世に登りやすいよう整えられた道だったのかも。 |
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【5】本丸 上に戻る
登城路を登り辿り着いたのが本丸です。
いきなりなので、やはり後世の道かと。
山上を丸く平坦にしただけの曲輪です。
元々は土塁などあったかもですが。
毛利軍に攻められそのまま廃城。
なので、豊織式になる前の形のままかも。 |
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有名な城跡なので、この手のモノは充実しています。
ご堪能下さい♪ |
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【7】腰曲輪 上に戻る
本丸からは、尾根沿いに段々の腰曲輪が見えます。 |
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【8】二の丸 上に戻る
続いて二の丸です。
本丸から西側の緩い尾根上にあります。
幅の広い細長い曲輪です。
こちらも土塁が見当たりません。
この辺りから小バエが気になり始めます。 |
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【9】上の堀切 上に戻る
二ノ丸を過ぎ、尾根を下り始めます。
すると、尾根を横切る堀切があります。 |
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【10】上の堀切 上に戻る
こちらは反対側とは違い、ちゃんと凹んでいます。
下から見ると、かなりそれっぽく見えます♪ |
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【11】下の堀切 上に戻る
少し下った所にももう一条あります。
写真だけだと上のと区別がつかず。
GPSの軌跡から、この写真だとわかりました。
記憶だけだと「あれ?どれ?」になる所でした。
アブナイアブナイ
文明の利器に感謝です。 |
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【12】下山道 上に戻る
二ノ丸にある案内に従い、道を下りました。
私は登城路が複数ある場合、可能な限り攻めるので。
下る道はまだ良かったのですが・・・
下ってからの川沿いの道は草ぼーぼーでした。
城の構造的にはこっちが大手っぽいのですが。
真夏に草を掻き分けるのはかなりリスクが。
こちらのルートは、真夏には避けた方が良いでしょう。 |
◆歴史◆
1336年、上月景盛により築かれました
上月景盛は赤松氏の祖・赤松家範の兄です。
赤松氏は鎌倉幕府打倒に貢献し、播磨国守護となります。
しかし、建武新政の恩賞に不満爆発。
足利尊氏に従い、宮方と戦います。
足利尊氏は一時敗れ、九州に逃れました。
九州で再起した足利尊氏は、軍勢を率い東上。
その際、赤松氏は白旗城で新田軍を釘付けにしました。
足利尊氏は湊川の戦で新田軍に勝利。
上月城が築かれたのは、その直後と考えられます。
1441年、赤松満祐が将軍・足利義教を殺害。
上月景則もこの「嘉吉の乱」に加わりました。
そのため幕府に討伐され、上月氏嫡流は滅びます。
作用系赤松氏の城となります
1557年、赤松政元が上月城に入ります。
嘉吉の乱からココまでの間がわかりませんでした。
赤松政元は作用系赤松氏と呼ばれます。
赤松家当主・赤松義村の子とされますが不明です。
赤松政元は「西播磨殿」と呼ばれていました。
支配地域は作用荘を中心とする16万石です。
1575年頃、宇喜多直家により上月城は落城。
宇喜多直家直々に説得し、赤松政元は宇喜多家に従います。
1578年、争奪戦の末、廃城となりました
宇喜多直家は毛利家に従っており、羽柴軍に攻められました。
当時の城主・赤松政範は自害。
家臣・城兵は降伏したものの、皆殺しにされました。
直後に宇喜多軍が上月城を奪還。
宇喜多家臣・上月景貞が城主となります。
上月景貞は、築城者である上月景盛の庶流の子孫と思われます。
しかし、羽柴軍が攻め寄せ、内応者により再び落城。
上月景貞は自害しました。
羽柴秀吉は、尼子勝久を城主とし毛利軍に備えさせます。
尼子氏は1566年、毛利元就に滅ぼされた大名家です。
羽柴軍に属することで、再興を目指していました。
しかし、直後に毛利軍の大軍に包囲されます。
羽柴軍は毛利方に寝返った別所氏の三木城を包囲中。
そのため援軍の無いまま落城します。
降伏した尼子勝久は自害。
山中鹿介は移送中の備中国高梁で誅殺されました。
上月城は、その後まもなく廃城となりました。
所在地:兵庫県佐用郡佐用町寄延 GPS軌跡ダウンロードページ
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