2023/07/09
聖山城/兵庫県宍粟市
聖山城は、小さな山城です。
訪問日は2022年8月5日です。
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聖山城は、山崎の街の東側にあります。
目の前には堀代わりとなった揖保川が流れています。
城跡へは西側から登れます。
登城口前には、登城者用の駐車場も完備。
手軽に訪ねることの出来る小さな山城です。 |
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【1】西側の麓から 上に戻る
駐車場から見た城山です。
「城山」は勝手にそう呼んでます。
「城のある山」なので。
そう考えると日本中「城山」だらけです。
通りすがりに「城山」の地名を見ると心が騒ぎます♪ |
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【2】鳥居 上に戻る
登城口は神社です。
なので、入口に立派な鳥居があります。
その鳥居脇に、ちゃんと案内があります。
公園っぽい感じで、地域の集まりとかありそう。
駐車場があるのも、そのためでしょうか。 |
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【3】登城口 上に戻る
登城口は右側の石段です。
だって案内出てますから!
案内が無いと私は困ります。
迷子スキルがとても高いので。
兵庫県内では「山城へGo」の幟をよく見ます。
城跡への山道を整備して下さってるのでしょうか。 |
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【4】腰郭 上に戻る
途中には愛宕神社があります。
麓にあった赤い鳥居の神社とは別のようです。
ここは腰郭で、主郭のすぐ下です。
木の柵と和風な建物が合います^^ |
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【5】腰郭からの眺め 上に戻る
腰郭から見た山崎の景色です。
高さは無いですが、とてもよく見えます。
山崎を守る側は、敵にココは取られたくないですね。 |
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【6】虎口? 上に戻る
主郭に入るのがココだけなのですが。
でも、何となく虎口という感じがしません。
もしかしたら往時は腰郭から帯郭を回り込んだのかも。
だとすると、さっきの腰郭の入口が虎口ですね。
だってココ、道っぽくありませんし。 |
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【7】主郭 上に戻る
主郭は東西に細長くなっています。
その西端、山崎の街側が一段高くなっています。
ココに椅子と説明板があります。
木も切り払われ、城の形がよくわかります。
・・・大した凸凹も無いですけどw |
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【8】主郭 上に戻る
ほら |
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【9】帯郭 上に戻る
なんて。
主郭を奥へ進むと、少し段差があります。
これは主郭を囲んでいる帯郭です。
多少横堀っぽくも見えますが帯郭です。
堀と言う程の深さはありませんので。
この先は平坦な鞍部ですが、堀切等はありません。 |
◆歴史◆
1493年、下村則真により築かれました。
下村氏は、西播磨八郡守護代・宇野氏の重臣です。
この頃はと言えば、その主・赤松家激動の時代でした。
赤松政則が山名氏との戦に出張り大敗。
しかしこれは、重臣達と打合せてたのとは違う動きでした。
そのため赤松政則は、重臣達の合議のもと追放。
1485年、別所氏の活躍で将軍を味方に付け、赤松政則が守護に復帰。
浦上則宗らを屈服させ、播磨国守護・赤松家当主に帰り咲きました。
聖山城が築かれたのが、この頃です。
1495年に赤松政則が没すると、赤松家は家督を巡り分裂。
赤松・浦上・別所の三家による三つ巴となります。
・・・かなりザックリですが。
築城時は赤松政則が健在でしたが、予兆はあったのかもしれません。
1580年、羽柴軍に攻め落とされました
羽柴秀吉は、毛利家討伐のため出陣。
しかし間もなく、播磨の国人衆が毛利方となりました。
そのため、羽柴軍は足止めを喰らいます。
羽柴軍が最初に討伐したのは別所氏でした。
別所氏は東播磨の守護代です。
三木城に立て籠り、2年近く抵抗しました。
別所氏討伐後、羽柴軍が攻めたのが宇野氏です。
宇野政頼・祐清父子は長水城と篠の丸城に籠城。
その付城的な位置にある聖山城に目を付けました。
そのため真っ先に攻め落とされ、羽柴軍の本陣となりました。
宇野家中では戦前から織田派と毛利派に分裂。
そのため1574年に嫡男・宇野満景が粛清されていました。
羽柴秀吉は元・宇野満景派を調略。
城内から手引きさせて陥落させています。
所在地:兵庫県宍粟市山崎町須賀沢 GPS軌跡ダウンロードページ
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