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山崎城/兵庫県宍粟市

山崎城は、江戸時代に築かれた平城です。
訪問日は2022年8月5日です。

山崎城【写真位置】 大きな地図を表示

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別名・鹿沢城とも呼ばれます。
どちらも濁らず「やまさき」「しかさわ」と読みます。
市街地になっていますが、城跡は公共施設が多いです。
そのため、城の名残が多く残っています。
車は図書館の駐車場に停められます。
山崎城【1】
【1】角櫓跡 上に戻る

図書館の駐車場から表に出る所です。
城跡的には本丸北側の角櫓跡です。
そういう目で見ると、石垣が食い違っています。
虎口のように見えますが、大手門は反対の南側です。
まぁ虎口なのでしょうけど。
本丸は左側の石垣の向こう側です。
山崎城【2】
ここに立派な説明板があります。
東西に曲輪を連ねた連郭式です。
南側に高低差があり、崖端城っぽさもあります。
台地の端を堀で切り取った感じのお城でした。
山崎城【3】
【3】紙屋門 上に戻る

真ん中の通りの西側に立派な門があります。
本丸の入口にある紙屋門です。
山崎城【4】
【4】武者屯 上に戻る

本丸の東側で、北に大手門、南は桜の馬場へ。
そんな真ん中の大通り的な感じの所です。
武者屯って、なんか都合の良い空き地でしょうか。
「○曲輪」という程でもない所に付けられてるような。
山崎城【5】
【5】本丸 上に戻る

紙屋門から入った所が本丸です。
御殿風な建物の前に石碑があります。
建物は民俗資料館で、明治の建物を移築復元したのだとか。
古い感じはそういう事だったんですね。
雰囲気にとてもよく合っています。
山崎城【6】
【6】北側 上に戻る

本丸から北側に出て外を見た所です。
真正面に道が真っすぐ伸びています。
この大きな通りが大手口です。
山崎城【7】
【7】石垣の跡 上に戻る

北側は市街地ですが、少しだけ城の名残があります。
道との間には少し高低差があります。
これは堀際の石垣か土塁の跡でしょうか。
山崎城【8】
【8】内堀跡 上に戻る

もう少し引いて見ると、よりハッキリします。
手前が埋められた内堀跡です。
近代的な石垣は、きっと元の形で積み直されたのでしょう。
本当に近代的にするなら、この出っ張りは要りませんからね。
山崎城【9】
【9】内堀跡 上に戻る

もっとハッキリしてるのが、北側の道です。
堀沿いの道がそのまま転用されてます。
なので厳密に言うと、堀跡は道の右側です。
山崎城【10】
【10】内堀跡の石碑 上に戻る

そう思って歩いていると、ちゃんとあります。
たぶんあまり日の目を見ないであろう石碑です。
私はちゃんと見つけますよ^^
山崎城【11】
【11】積まれた石 上に戻る

内堀跡にある公園に、無造作に石が積まれていました。
富士山のような形の石。
これは、これから石垣を造ろうというのでしょうか。
何もそれっぽい案内は無かったのですが。
もしそうなら、ちょっと来るのが早かったかもしれません。
山崎城【12】
【12】表御門跡の石碑 上に戻る

山崎小学校正門前にも石碑があります。
周りの雰囲気も含めて撮りました。
門の跡ということで、すこし凹んでいますよね?
こんな所にも、お城だった時の痕跡が見え隠れします。
山崎城【13】
【13】内堀跡 上に戻る

小学校の外側の道も堀跡です。
まぁそうですよね^^
そんな道沿いにもちゃんと石碑があります。
どうせ忘れ去られちゃったんでしょう?
そんなことはありません!
極少数派かもしれませんが^^;
山崎城【14】
小学校の角にも説明板があります。
これは中堀の説明板です。
点々とこういうのがあると、足が止まりません。
山崎城【15】
【15】搦手の石碑 上に戻る

小学校の外周に沿って時計回りに進みました。
すると、東側の道沿いに立派な石碑がありました。
もうちょっと引いて地形も撮れば良かった・・・
表御門跡ではそうしたのに。
山崎城【16】
【16】南側の堀跡 上に戻る

小学校に沿って時計回りに進みました。
・・・さっきと同じコト書いてます^^;
南側に段差があり、石垣に沿って水路があります。
これ、誰がどう見たって堀跡ですよね?
しかも、城側が段々になっています。
堀に沿って犬走りもあったようです。
山崎城【17】
【17】南側の出入口 上に戻る

図には名前が無い出入口です。
土塁に沿って傾斜が緩いのは馬のためでしょうか。
武者屯から出たコチラ側が桜の馬場です。
取って付けた感は、当初の設計に無かったのでしょうか。
桜の馬場は、雰囲気的に城の外にある感じです。
山崎城【18】
【18】南側の石垣 上に戻る

桜の馬場に沿って、西側半分は石垣があります。 積み方を見る感じは、往時からのものっぽいです。
ずっと痕跡ばかりだと、テンション上がります^^
山崎城【19】
【19】大手前の石碑 上に戻る

次の城跡へ向かう時に見つけた石碑です。
本丸の北の大通りの先の交差点にあります。
「史跡」とありますが、周りはガッツリ・・・です。
道に沿ってある長塀は城を意識した感じに見えます。
造成中の空き地には、何が出来るのでしょうか。


◆歴史◆

1587年、木下勝俊により築かれました

1580年、羽柴秀吉が篠ノ丸城を攻略。
神子田正治・黒田孝高・木下勝俊が城主となりました。
木下勝俊が城主の時に、南西の麓に築いたのが山崎城です。
龍野城主だったので、支城だったと思われます。
木下勝俊は羽柴秀吉の甥です。
別の表現をすると、小早川秀秋の異母兄です。
一時キリシタンとなり、後に歌人となる人物です。
松尾芭蕉にも影響を与えたとされるそうです。
1594年、若狭に8万石を与えられます。

1615年、池田輝澄が本格的に築城します

木下勝俊の後、誰が城主だったのかが?です。
おそらく直轄地だったのではないでしょうか。
岡山藩主・池田忠継が早世。
その領地の一部が弟の池田輝澄に与えられました。
山崎城が本格的に築かれたのはこの頃です。
1633年には弟も没し、その領地を併せ持ちました。
しかし、所領の急増により家臣団に亀裂が発生。
1640年に多数の藩士が脱藩する池田騒動に発展します。
そのため改易処分となりますが・・・
徳川家康の外孫ということで、堪忍料1万石を与えられます。
池田氏の後は、松井康映が1649年まで城主となります。
松井康映の後は再び池田氏が城主に。
無嗣断絶するまで3代続きます。

1679年、本多忠英が藩主になり9代続きました

本多忠英は本多忠勝の子孫です。
とはいっても、子の無かった本多政信の養子です。
この時に陣屋構築の許可が下り、ようやく完成します。
以後、本多氏が9代続き、廃藩置県を迎えました。


所在地:兵庫県兵庫県宍粟市山崎町鹿沢 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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