2023/06/29
山崎城/兵庫県宍粟市
山崎城は、江戸時代に築かれた平城です。
訪問日は2022年8月5日です。
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別名・鹿沢城とも呼ばれます。
どちらも濁らず「やまさき」「しかさわ」と読みます。
市街地になっていますが、城跡は公共施設が多いです。
そのため、城の名残が多く残っています。
車は図書館の駐車場に停められます。 |
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【1】角櫓跡 上に戻る
図書館の駐車場から表に出る所です。
城跡的には本丸北側の角櫓跡です。
そういう目で見ると、石垣が食い違っています。
虎口のように見えますが、大手門は反対の南側です。
まぁ虎口なのでしょうけど。
本丸は左側の石垣の向こう側です。 |
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ここに立派な説明板があります。
東西に曲輪を連ねた連郭式です。
南側に高低差があり、崖端城っぽさもあります。
台地の端を堀で切り取った感じのお城でした。 |
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【3】紙屋門 上に戻る
真ん中の通りの西側に立派な門があります。
本丸の入口にある紙屋門です。 |
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【4】武者屯 上に戻る
本丸の東側で、北に大手門、南は桜の馬場へ。
そんな真ん中の大通り的な感じの所です。
武者屯って、なんか都合の良い空き地でしょうか。
「○曲輪」という程でもない所に付けられてるような。 |
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【5】本丸 上に戻る
紙屋門から入った所が本丸です。
御殿風な建物の前に石碑があります。
建物は民俗資料館で、明治の建物を移築復元したのだとか。
古い感じはそういう事だったんですね。
雰囲気にとてもよく合っています。 |
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【6】北側 上に戻る
本丸から北側に出て外を見た所です。
真正面に道が真っすぐ伸びています。
この大きな通りが大手口です。 |
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【7】石垣の跡 上に戻る
北側は市街地ですが、少しだけ城の名残があります。
道との間には少し高低差があります。
これは堀際の石垣か土塁の跡でしょうか。 |
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【8】内堀跡 上に戻る
もう少し引いて見ると、よりハッキリします。
手前が埋められた内堀跡です。
近代的な石垣は、きっと元の形で積み直されたのでしょう。
本当に近代的にするなら、この出っ張りは要りませんからね。 |
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【9】内堀跡 上に戻る
もっとハッキリしてるのが、北側の道です。
堀沿いの道がそのまま転用されてます。
なので厳密に言うと、堀跡は道の右側です。 |
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【10】内堀跡の石碑 上に戻る
そう思って歩いていると、ちゃんとあります。
たぶんあまり日の目を見ないであろう石碑です。
私はちゃんと見つけますよ^^ |
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【11】積まれた石 上に戻る
内堀跡にある公園に、無造作に石が積まれていました。
富士山のような形の石。
これは、これから石垣を造ろうというのでしょうか。
何もそれっぽい案内は無かったのですが。
もしそうなら、ちょっと来るのが早かったかもしれません。 |
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【12】表御門跡の石碑 上に戻る
山崎小学校正門前にも石碑があります。
周りの雰囲気も含めて撮りました。
門の跡ということで、すこし凹んでいますよね?
こんな所にも、お城だった時の痕跡が見え隠れします。 |
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【13】内堀跡 上に戻る
小学校の外側の道も堀跡です。
まぁそうですよね^^
そんな道沿いにもちゃんと石碑があります。
どうせ忘れ去られちゃったんでしょう?
そんなことはありません!
極少数派かもしれませんが^^; |
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小学校の角にも説明板があります。
これは中堀の説明板です。
点々とこういうのがあると、足が止まりません。 |
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【15】搦手の石碑 上に戻る
小学校の外周に沿って時計回りに進みました。
すると、東側の道沿いに立派な石碑がありました。
もうちょっと引いて地形も撮れば良かった・・・
表御門跡ではそうしたのに。 |
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【16】南側の堀跡 上に戻る
小学校に沿って時計回りに進みました。
・・・さっきと同じコト書いてます^^;
南側に段差があり、石垣に沿って水路があります。
これ、誰がどう見たって堀跡ですよね?
しかも、城側が段々になっています。
堀に沿って犬走りもあったようです。 |
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【17】南側の出入口 上に戻る
図には名前が無い出入口です。
土塁に沿って傾斜が緩いのは馬のためでしょうか。
武者屯から出たコチラ側が桜の馬場です。
取って付けた感は、当初の設計に無かったのでしょうか。
桜の馬場は、雰囲気的に城の外にある感じです。 |
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【18】南側の石垣 上に戻る
桜の馬場に沿って、西側半分は石垣があります。
積み方を見る感じは、往時からのものっぽいです。
ずっと痕跡ばかりだと、テンション上がります^^ |
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【19】大手前の石碑 上に戻る
次の城跡へ向かう時に見つけた石碑です。
本丸の北の大通りの先の交差点にあります。
「史跡」とありますが、周りはガッツリ・・・です。
道に沿ってある長塀は城を意識した感じに見えます。
造成中の空き地には、何が出来るのでしょうか。 |
◆歴史◆
1587年、木下勝俊により築かれました
1580年、羽柴秀吉が篠ノ丸城を攻略。
神子田正治・黒田孝高・木下勝俊が城主となりました。
木下勝俊が城主の時に、南西の麓に築いたのが山崎城です。
龍野城主だったので、支城だったと思われます。
木下勝俊は羽柴秀吉の甥です。
別の表現をすると、小早川秀秋の異母兄です。
一時キリシタンとなり、後に歌人となる人物です。
松尾芭蕉にも影響を与えたとされるそうです。
1594年、若狭に8万石を与えられます。
1615年、池田輝澄が本格的に築城します
木下勝俊の後、誰が城主だったのかが?です。
おそらく直轄地だったのではないでしょうか。
岡山藩主・池田忠継が早世。
その領地の一部が弟の池田輝澄に与えられました。
山崎城が本格的に築かれたのはこの頃です。
1633年には弟も没し、その領地を併せ持ちました。
しかし、所領の急増により家臣団に亀裂が発生。
1640年に多数の藩士が脱藩する池田騒動に発展します。
そのため改易処分となりますが・・・
徳川家康の外孫ということで、堪忍料1万石を与えられます。
池田氏の後は、松井康映が1649年まで城主となります。
松井康映の後は再び池田氏が城主に。
無嗣断絶するまで3代続きます。
1679年、本多忠英が藩主になり9代続きました
本多忠英は本多忠勝の子孫です。
とはいっても、子の無かった本多政信の養子です。
この時に陣屋構築の許可が下り、ようやく完成します。
以後、本多氏が9代続き、廃藩置県を迎えました。
所在地:兵庫県兵庫県宍粟市山崎町鹿沢 GPS軌跡ダウンロードページ
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