2013/10/06
深谷城/埼玉県深谷市
深谷城跡は深谷城址公園となっています。訪問日は2012年5月19日です。

▲深谷城址公園の入口
城址公園は摸擬の石垣や城壁があるのですぐにわかります。これらを見ると"あぁ、遺構は無さそうだな・・・"とピンと来ます。直感通り、遺構はありませんでした。

▲説明板
公園内には古図付の説明板があります。2枚にわたっておりかなり大きいのですが・・・現地で見て下さいw

▲公園内の様子
公園内は一面の芝生で、市民の良き憩いの場となっています。入口の城壁もどきが無ければ、かつてここがお城だったなんて気付かないでしょう。

▲富士浅間神社
公園の裏手には富士浅間神社があります。明治時代までは智形神社と呼ばれ、深谷城の鎮守として祀られた五社の1つです。

▲外堀跡
その外周には、深谷城の外堀跡が残されています。完全に破壊され尽くした深谷城跡で、唯一往時を偲ぶことが出来る場所です。
◆歴史◆
深谷城は1456年、庁鼻和(こばなわ)城主・上杉房憲により築かれました。庁鼻和上杉氏は初代関東管領・上杉憲顕の6男・上杉憲英を祖とします。ということで、山内上杉氏の一門です。
1455年に古河公方と山内上杉氏との間で享徳の乱が始まりました。それまでは庁鼻和城を居城としていましたが、より堅固な城が必要となったのです。
上杉憲英→憲光→憲信の3代は庁鼻和城を本拠としており、庁鼻和上杉氏と呼ばれました。これに対し、上杉房憲は深谷城を築いて本拠としたため、深谷上杉氏と呼ばれています。深谷城は対古河公方の五十子陣からも近く、前線基地の役割を果たしたと思われます。
1478年に古河公方との争いはひと段落しますが、戦乱は続きました。山内上杉氏の家宰職を巡って長男景春が謀反を起こしたのです。どちらかと言うと、20年続いた享徳の乱よりもこちらの方が影響が大きかったような・・・w
この乱では山内上杉氏、古河公方ともに直接戦っておらず、挙兵した有力者が没落しました。乱を鎮圧したのは扇谷上杉氏の家宰・太田道灌です。これにより、扇谷上杉氏は山内上杉氏、古河公方と並び立つ第3の勢力となりました。
1486年に山内上杉顕定の讒言により、扇谷上杉定正は太田道灌を暗殺。以後、1507年に和睦するまで両者の戦いが続きました。
1537年、河越城が北条氏康により落とされました。
1546年、河越城を攻めた両上杉・古河公方連合軍が後北条軍に敗れました。
1552年、後北条氏が山内上杉氏の本拠・平井城を攻め落とします。
深谷上杉氏は1546年から1552年までの間に後北条氏に従うようになりました。
1560年、越後の長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて関東に侵攻。厩橋城で越年。この時に深谷上杉氏は長尾方に復帰しました。
1562年、年末に後北条・武田連合軍が松山城に攻め寄せました。上杉輝虎(謙信)は松山城救援のため雪の中を強行越山しましたが、間に合いませんでした。この時に深谷上杉氏は後北条軍に降伏しました。輝虎は佐野・結城・小山氏を屈服させて厩橋城で越年し、年明けに小田氏を攻めて帰りました。
1569年、北条氏康と上杉輝虎が越相同盟を結びました。この時に上野国は上杉輝虎の領地となり、上野国に近い深谷上杉氏も輝虎に従いました。
1572年、北条氏康が没し、北条氏政が跡を継ぎました。北条氏政は武田信玄と再び同盟を結ぶと、上杉謙信との同盟を破棄しました。この時、深谷上杉憲盛は後北条氏にはつかず、上杉方として城を守りました。
1575年、憲盛が没し、氏憲が家督を継ぐと、後北条氏方に戻りました。
1578年には北条氏政の養女を娶り、以後北条氏邦の将として各地を転戦しました。
1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされました。この時氏憲は小田原城におり、深谷城は北国勢に攻められ開城しました。戦後、氏憲は隠居して信濃へ移りました。深谷城には長沢松平家の松平康直が1万石で入りました。
あとは単なる年表です~
1593年、康直が24歳で没する。徳川家康の7男・松千代を養子に迎える。
1599年、徳川家康の6男・辰千代(松平忠輝)を新たに養子に迎える。
1602年、忠輝が下総国・佐倉へ移る。
1610年、桜井松平氏の松平忠重が城主となる。
1622年、忠重が上総国・佐貫へ移り、酒井忠勝が城主となる。
1627年、忠勝が武蔵国・川越へ移り、深谷藩は廃藩となる。
1634年、深谷城は廃城となりました。
所在地:埼玉県深谷市本住町(深谷城址公園)
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