fc2ブログ

北白川城/京都市左京区

北白川城は、京の都を押さえる要衝でした。
訪問日は2022年8月4日です。

北白川城【写真位置】 大きな地図を表示

写真へジャンプ
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13

別名は勝軍山城、勝軍地蔵山城、瓜生山城など。
某大聖典(日本城郭大系)では、勝軍山城として紹介されています。
でも、私は北白川城で書きます。
現地での表記を採用するのが私流なので。
この城は、京都の街を西に見下ろす瓜生山にありました。
木々で視界はゼロでしたが。
京が戦場となった頃に使われていた陣城です。
北白川城【1】
【1】駐車場 上に戻る

狸山地蔵尊の駐車場に停められます。
街が混むのを避けるため、夜明けに訪ねました。
銀閣寺から登る如意ヶ岳城はまだ行けていません。
車停められそうなのが9時半以降なので。
インバウンド回復前に行っとけば良かったデス。
でも、ここは多分心配要らないと思います。
北白川城【2】
【2】狸谷山不動院 上に戻る

狸谷山って変わった名前ですよね?
由来は咜怒鬼不動明王です。
平安京の鬼門守護としてこの地に祀られたそうです。
狸がいっぱい出るからではありませんでした。
狸谷山不動院がどんなお寺なのか知りませんでした。
ググったら清水の舞台そっくりな写真が出て来ます。
知ってたら見に行ったのですが(汗)
北白川城【3】
【3】登山口 上に戻る

境内を奥へ進むと登山口があります。
この先はお寺じゃないってそういう意味だったんですね。
狸谷山不動院の舞台は、石段を250段登った先にあります。
こんな感じで階段があると、間違えて登る人がいるんですね。
それにしても眺めが無いとか60歳以上はヤメておけとか。
それでも登るのは特殊な嗜好の持ち主ぐらいですけど。
北白川城【4】
【4】ハイキングコース 上に戻る

登山道はあるのですが、逸れました。
普通に山道登ってるつもりだったんですけどね。
いつものスキルを発揮してしまいました。
でも、ここから先は大丈夫。
ハイキングコースは堀底道みたいな感じなので。
北白川城【5】
【5】山頂 上に戻る

何て言う間に開けた場所に着きました。
雰囲気的にも山頂です。
もうちょっとガッツリ登山かと思ってました。
それが案外アッサリ15分で到着。
もっと「登山」したかったという訳ではないですが^^
あんまり体力使わずに済んでホッとしてます。
北白川城【6】
【6】虎口 上に戻る

とりあえず端から端を見て回ることに。
ハイキングコースからちょっと外れた所です。
たぶんこれ虎口ですね!
北白川城【7】
【7】虎口 上に戻る

南側にもしっかりした虎口が!
ああ、こっちにも道あるんやね
・・・ぐらいに思ってスルーしちゃいました。
地図見ると道無し。
下りて見て来ればよかったデス。
どこかに長~い横堀があるらしいので(+_+)
なんて思いながら某大聖典のページをめくると・・・
勝軍山城の図が載っていました。
その図では、ココから東側の長い堀へと破線が。
来る前にちゃんと見とけばヨカッタ!
と、毎年喚いてる気がします┐(´д`)┌
北白川城【8】
【8】説明板 上に戻る

色々書かれている説明板です。
お城の事も書かれています。
まさか3分の2が山の出来方ですw
別名の由来となったお地蔵様は移転。
その理由が余りにも山奥だからとか。
・・・そうでもないケドなぁ。
北白川城【9】
【9】元・勝軍山地蔵堂 上に戻る

ということで、抜け殻のお堂です。
それにしてはかなり立派です。
北白川城【10】
【10】虎口 上に戻る

北側にも道があり、こんな感じです。
掘られてクネって、まさに虎口という感じ。
本当はこっちから上がって来る筈でした。
北白川城【11】
【11】土塁 上に戻る

端には壁のような土塁があります。
お堂があるので削り残しかもですが。
京の反対側にだけあります。
細川晴元が造ったのでしょうか。
歴史的には京を攻める側が拠った城ですが・・・
構造的には逆向きになっている気がします。
北白川城【12】
【12】曲輪 上に戻る

山上の平坦面は、奥へと続きます。
人工的な感じはしますが、ちょっとビミョー。
でも、自然地形ではないとは感じます。
籠って守るタイプの城ではなかったからかもです。
北白川城【13】
【13】曲輪 上に戻る

先端部は西から南へ続きます。
その最先端がココです。
付け根部分とそう変わりありませんネ(^^;)


◆歴史◆

1520年、細川高国により築かれました

細川高国は、室町幕府で管領を務めた人物です。
当時は細川家で内紛があり、細川澄元と争っていました。
2人の養父・細川政元は、廻国修行したがるも家臣に止められます。
当時の細川吉兆家当主は「半将軍」と呼ばれていました。
そりゃぁ家臣は必死に止めますよねw
修験道にド嵌りしていたため妻を娶らず。
「次」を狙う面々から養子を送り込まれました。
そんな最中の1507年に暗殺され・・・
幕府の最高権力を巡り、養子達で争ったのでした。
1520年は、細川高国が勝利した年です。
始めは細川澄元が勝利し、細川高国は坂本へ逃れました。
しかし、六角・朝倉・土岐家の支援を得て京へ侵攻。
北白川城は、この時に築かれました。
一時は京を占拠した細川澄元に援軍は無し。
単独で戦い敗れ、阿波へ撤退。
そのまま病死したのでした。
しかし、細川高国側だった将軍・足利義稙は細川澄元に内通。
細川澄元の子・晴元も健在で、火種を残すこととなりました。

1527年、六角家臣・内藤彦七が城主となりました

桂川原の戦で敗れた細川高国が、近江国坂本へ落ち延びました。
この戦は、細川晴元による周到な調略により始まりました。
事の発端は、細川高国が香西元盛を自害させた事です。
なぜ自害させたかというと、讒言を信じたからです。
これにより、香西元盛の兄弟である波多野元清・柳本賢治が離反。
細川高国は両名の城を討伐軍で包囲します。
しかし、討伐軍の面々は波多野氏兄弟に同調。
さらに、細川晴元が出陣しました。
細川高国に味方したのは若狭の武田元光のみ。
六角定頼は細川高国方でしたが、北白川に留まりました。
両陣営は桂川を挟んで対陣。
細川晴元方が細川高国陣営後方に奇襲を掛け勝利しました。
六角軍が日和見だったのは、細川晴元との間に縁談があったためです。
一応は坂本の細川高国を支えており、どちらにも転がれる状況でした。
北白川城に駐留したという事は、京に睨みを効かせるという事。
六角定頼は、幕政への影響力を強めたのでした。

1531年、細川晴元の城となります

劣勢となった細川高国は、各地へ援軍を要請。
しかし、色よい返事はありませんでした。
そんな中、備前守護代・浦上村宗が援軍の要請に応じました。
浦上村宗は隣国・播磨へと勢力を拡大していました。
この播磨統一に、細川高国を利用しようと考えたようです。
浦上村宗は摂津にある細川晴元方の池田城を攻略。
さらに京へ向かうと、京を守っていた木沢長政が謎の撤退。
そこへ北白川城の細川高国の軍勢が京に攻め入り制圧。
4年ぶりに京を奪回しました。
細川晴元は反撃に転じ、三好元長が阿波から摂津に上陸。
一進一退となります。
ここに、播磨守護・赤松政祐が細川高国の援軍として駆け付けます。
これには細川高国と浦上村宗が自ら出迎えたと伝わります。
しかしその2日後、赤松軍が友軍を急襲。
細川高国方は総崩れとなります。
赤松政祐は、父を殺した浦上村宗への仇討ち狙いでした。
細川晴元方はこの機に乗じ、細川高国を捕縛。
細川高国は、尼崎大物の広徳寺で自害させられました。
浦上村宗も赤松軍に全滅させられ、討ち取られています。
この戦は大物崩れと呼ばれています。

1547年、足利義晴が自焼しました

1546年末、足利義晴が嫡男・菊童丸を元服させました。
通例では管領が烏帽子親を務めますが、六角定頼が務めました。
そのため代々烏帽子親を務めた細川吉兆家の面子は丸潰れ。
足利義晴は細川晴元と袂を分かちます。
その足掛かりとして、北白川城を自ら改修。
その様子を記した史料が残っているそうです。
足利義晴は元服した足利義輝に将軍職を譲ります。
自らは北白川城に籠り、細川高国の子・氏綱らを支援します。
しかし、細川氏綱は細川晴元方の三好長慶に敗れます。
敗色濃厚となった足利義晴は、北白川城を自焼し坂本へ撤退します。
その後、細川晴元と三好長慶が対立。
京の情勢は更に混沌とするのでありました。

1561年、松永久秀に攻め落とされました

三好長慶が主君である細川晴元を幽閉しました。
これに六角承禎(義賢)は激怒し、畠山高政とともに挙兵しました。
六角承禎は神楽岡に、永原重澄を将軍地蔵山城(ココ)に展開。
三好長慶は松永久秀に将軍地蔵山城を攻めさせます。
白川口では三好軍と細川晴之が一進一退。
松永軍は将軍山城を攻め、永原重澄を討ち取ります。
勢いを得た松永軍は六角本隊を攻めますが敗退します。
その後、摂津で畠山高政が三好軍の総大将・三好実休を討ち取ります。
三好実休は三好長慶の実弟です。
三好軍は猛反撃に転じ、畠山軍を撃破。
松永久秀は大和で反三好勢力を撃退します。
六角承禎は三好長慶と和睦し近江へ退きました。

1569年、三好三人衆の攻撃を受けました

1565年、三好氏は将軍・足利義輝を殺害。
次の将軍として、阿波で匿っていた足利義栄を推しました。
一方、足利義輝の弟・義昭が還俗し、将軍となるべく活動を開始。
全国の大名に支援を求める中、織田信長が手を挙げました。
そのため三好氏は畿内を制圧し、足利義栄を将軍としました。
1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛。
抵抗する三好三人衆の勢力を各地で掃討します。
その最中、足利義栄が病死。
京に入った足利義昭が将軍となりました。
織田信長が美濃へ帰ると、三好三人衆が逆襲を開始。
京に攻め上がり、足利義昭の籠る本圀寺を襲撃します。
この時、勝軍地蔵山城(北白川城)も攻撃を受けました。
三好三人衆は、細川藤孝や三好義継らにより撃退されます。
織田信長は堅固な城が必要と判断し、二条御所を改修します。

織田信長の畿内支配確立により廃城となりました

1570年、織田信長は21か国の大名に対し触状を送りました。
これに応じた各地の大名から、足利義昭に従いました。
しかし、織田軍が若狭から越前へ侵攻すると浅井長政が離反。
また、三好三人衆が堺に上陸し、京を目指しました。
この時に石山本願寺も離反し、三好三人衆に味方します。
浅井・朝倉氏は比叡山延暦寺を味方に付け、東山に進軍。
明智光秀が勝軍地蔵山城に入り、牽制しました。
織田信長は足利義昭の仲介により三好三人衆と講和。
その後、浅井・朝倉両軍とも同様に講和を結びました。
東西からの挟撃の危機を脱した織田信長は美濃に帰国します。
1573年になると、足利義昭と織田信長が決裂。
足利義昭は各地の大名に織田信長討伐を命じます。
一度は講和を結ぶものの、足利義昭は翌年に破棄。
槇島城に移り挙兵しました。
織田軍に敗れた足利義昭は、京を追放されます。
その後、織田信長は包囲網を敷く大名を撃破。
畿内を制圧しました。
この頃に役割を終え、北白川城は廃城になったと考えられています。


所在地:京都市左京区一乗寺松原町 GPS軌跡ダウンロードページ
京都府の城跡/なぽの城跡巡りを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR