2023/05/20
亀山城/京都府亀岡市
亀山城は、京都の西側を抑える要衝でした。
訪問日は2022年8月3日です。
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「京都平城痕跡の旅」第三弾は亀山城です。
亀山城は、堀を三重に巡らせる堅固な城でした。
現在、主要部は大本教の本部となっています。
しかし、見学を申し込めば誰でも見学出来ます。
勧誘されるような事は無いので心配ご無用です。
むしろ、歴史の話を熱く語って下さいます^^
拝観(見学)は9時半から16時まで。
受付は15時半までです。
拝観料は高校生以上が300円、中学生以下は無料です。
周囲は市街地となりましたが、意外に多くの遺構が残っています。
外堀や惣構の堀は水路になり、一部土塁も見られます。
本丸から遠く離れた場所にも、色々と説明板があります。 |
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【1】大本教の神教殿 上に戻る
城跡を見学するためには、申し込みが必要です。
駐車場から見て左側の建物にカウンターがあります。
そこで申し込み、見学料300円を支払います。
すると、見学者であることを示すシールが渡されます。
目立つ所に貼れば、立入禁止場所以外を見学出来ます。
この建物はその隣にある建物です。
御殿風で雰囲気がとても合っていると思います^^ |
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上の写真で、石段の右側に写っている案内図です。
平山城だった地形がとてもよくわかります。
私が見学して来たのは主に本丸周辺です。
城は北は南郷池まで、南側に堀を連ねます。
そんな構造の一端を垣間見るような図です。 |
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【3】内堀 上に戻る
駐車場から本丸へ向かう途中に内堀があります。
駐車場や神教殿などは二の丸でした。
東側は埋められていますが、西側はある程度残っています。
幅が広く、本丸が厳重に守られていたことがわかります。 |
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【4】本丸と二の丸の間の堀跡 上に戻る
内堀の向こう側にも低い通路があります。
ここも堀跡で、往時は内堀と繋がっていました。
この左側が本丸、右側が二の丸です。
西の丸があるので、右側は東の丸だと思っていました。
縄張図には、二の丸が2箇所に描かれています。
二の丸は堀で隔てられ分断されています。
なぜ東側も二の丸なのか、理由はわかりません^^; |
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【5】本丸の石垣 上に戻る
石垣の手前にあるのは石垣の刻印についての説明板です。
石垣に刻印があるのは、天下普請だった証です。
亀山城には数回の改修の歴史があります。 |
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【6】石垣の刻印 上に戻る
説明板付近に、刻印のある石が見られます。
確かに刻印があるのですが、1つに石に2つ?
もしかしたら、妨害工作の跡でしょうか。
そうだとしたら、ズルですねw |
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【7】一ノ門 上に戻る
堀跡から本丸へはココを通ります。
ということは、通路があったんですね。
堀が埋められてるのでわかりづらいですが。
門は新しい感じですが、場の雰囲気にピッタリ。
昔はここから先が立入禁止だったのでしょうか。 |
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【8】本丸の高石垣 上に戻る
ここが亀山城の一番の見所です。
とは言え、殆どが大本教により積み直されたものです。
しかも2度目は政府により徹底的に破壊された後です。
ここまで復元するのは、並大抵の情熱ではありません。
角の石を見ると、下と上で確かに積み方が違います。
しかし、これはそういう目でみたからです。
積み直しとしてはかなり成功していると思います。
そう思うと、300円の見学料がとても安く感じられます。 |
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【9】本丸石垣の石段 上に戻る
石垣を上がる石段です。
上は聖地ということで立入禁止です。
石段はとても綺麗に積まれています。
何も知らなければやっちゃった?と思います。
でも、石垣再建の話を知るとそうは思えず。
本物を見た人物による復元ですからね。 |
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【10】本丸石垣 上に戻る
とてもよく出来た石垣なので、つい魅入られます。
こうして見ても、見事な野面積みです。
明智時代の石垣の再現でしょうか。 |
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【11】本丸石垣 上に戻る
せっかくなので堪能します。
石垣に生えた草木がいい雰囲気出してます。
変に手入れし過ぎないのがイイのかも。 |
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【12】内堀 上に戻る
奥の方の内堀です。
木々に覆われているのもまたリアル!
・・・なんて思ってしまいます。
完全再現とはいかないまでも、遺構が多く残っています。
駐車場も利用出来ますし、訪ねる価値は大いにあります。 |
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【13】南郷池(外堀) 上に戻る
さて、ここから先は変態の所業です。
まずは北側の外堀である南郷池。
ここはまだ皆さん見に来ます。
池と名が付く程に幅の広い水堀です。 |
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【14】保津門跡 上に戻る
南郷池沿いに歩こうとする角に立て札が。
ここが保津門の跡だと示しています。
ということは、道は土橋だったのでしょうか。 |
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【15】南郷池脇にある案内板 上に戻る
南郷池沿いに歩いていると、これがあります。
諸兄のサイトでは見かけません^^
天守のイラストは古写真を参考にしたようです。
亀山城には、こんな感じの天守がありました。
左側は天守周りの縄張図です。
こちらもかなりの情熱入ってマス! |
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【16】南郷池の西端 上に戻る
南郷池の西端です。
南郷池に沿って歩けるのはココまでです。
奥まで続いていますが、入れません。
立入禁止ではなさそうですが・・・
一応まだヒトの目は気になるようです^^; |
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【17】外堀跡 上に戻る
少し進んだ所に水路があります。
ここも外堀の跡です。
南郷池以外の外堀は、こんな感じで残っています。 |
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【18】御作事跡 上に戻る
外堀の痕跡を辿ろうと歩き回りました。
しかし、予定外の収穫がありました。
まずはココです。
立て札には御作事跡と書かれています。
城の造営修理を担っていた部署があったようです。
外堀沿いの一角にありました。 |
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【19】外堀跡 上に戻る
道は堀沿いでない所が殆どです。
なので、水路を跨ぐ道を辿りました。
こうして見ると、水路の両側で高さが違います。
普通の水路と違うのはこういった所でしょうか。 |
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【20】外堀跡 上に戻る
私は痕跡を辿れればいいと思っていました。
でも、こんな風に立て札のある場所もあります。
立てたっきりのようですが・・・
ちゃんと見てる人は見てますヨ^^
極少数ですがヾ(*´∀`*)ノ |
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【21】形原神社 上に戻る
次に外堀跡を跨ぐのがココです。
・・・のつもりだった神社です。
ココには立て札が3つありました。
「形原」という名前、勘のイイ方なら気付きますよね?
徳川家の親戚筋に当たる形原松平家の「形原」です。
御館は江戸時代の城主様のものだったようです。 |
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【22】外堀跡と勘違いした所 上に戻る
ここからさらに外側の惣構を見に行きました。
外堀とはここで一旦お別れのつもりで撮りました。
確かにこの道を東に進めば外堀跡ですが・・・
さっきの神社で既に外堀とはお別れしてました^^; |
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惣構で一番の見所はココ!
ということで訪ねた京町天満社です。
ココに立派な説明板があります。
この説明板には、城内にも無かった縄張図まで描かれてます。
図マニアな方は必見ですね! |
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【24】惣構の土塁 上に戻る
そして、肝心の惣構の遺構です。
この手のモノを見るのは小田原古城以来だと思います。
惣構まで見に来ることがあまり無いので。
思っていたよりも高さがありました。 |
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【25】惣構の堀跡 上に戻る
惣構の堀跡も水路になっています。
なので、街中の至る所でこんな風に見ることが出来ます。 |
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しばらく惣構が続きます。
地図を見ていたら水路が続いていたので。
そうして辿ると、こうやってご褒美が出て来ます^^ |
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【27】御土居(惣構の土塁) 上に戻る
説明板があるのは、実物があるから。
ということで拝見します。
ちょっと崩れてる気もしますが・・・
時代の流れということで |
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【28】惣構の堀跡 上に戻る
土塁は途切れますが、水路は続きます。
すぐ東側に、堀跡の水路があります。
水路自体は暗渠になり、その上が道になっています。
こういう堀跡もあるんですね! |
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更に東の公園でも土塁が見られます。
奥の横一線に高い所が土塁です。
ここにもまさかの説明板があります。
主要部から遠く離れているのに(*^▽^*) |
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【30】遠見遮断 上に戻る
堀跡だけでなく、街角にも立て札が。
何だろうと思ったのですが読み取れず。
20同様、文字はかすれ板が割れてしまっています。
それでも断片的に読み取れる文字でググりました。
どうやらこれは「遠見遮断」の説明板のようです。
「遠見遮断」とは、城下町の曲がりくねった道の事です。
読んで字の如く、城内を見通せないようにする仕組みです。
城下町はこういう造りだと知ってはいましたが・・・
名前があるとは知りませんでした。
勉強になります。 |
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【31】桜の馬場跡 上に戻る
惣構とお別れして、再び外堀跡へ。
地図上でもそれとわかるのが、ココです。
外堀跡周辺が公園になっています。
その西端に、桜の馬場の説明板があります。
確かに真っすぐです。
ここら辺が馬廻り関係者の居住区だったそうです。 |
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【32】外堀跡 上に戻る
外堀跡が古世親水公園になっています。
確かにお子様たちが水辺で遊んでいます。
私も子供の頃はよく水辺で遊びました。
結局河童さんには遭えず終いでしたが。
ここにはそういった類は出なさそうです。 |
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ここにも説明板があります。
あまり紹介されていませんが、沢山ありました。
本格的に探せば、倍以上はありそうに思います。
さて、説明板によると湧水地らしいです。
外堀の水源はココのようです。 |
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【34】水車跡 上に戻る
最後に偶然見つけた水車跡です。
外堀が北上し、惣構と合流する場所です。
道の向こうに立て札があり、渡って見に行き知りました。
立て札を読むと、確かに段丘の地形です。
ここで外堀が落ち、惣構に合流したと書かれています。 |
ここからは移築建築物です。
他の城に比べてかなり多いです。 |
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まずは文覚寺山門です。
亀山城から保津川を渡った先の北東にあります。
お寺の雰囲気ととても合っています。 |
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文覚寺の近くに、移築御殿もあります。
こちらは中に入れなかったので、外から撮っています。
現存する御殿はとても少ないので超貴重です^^ |
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続いて西に少し離れた所にある移築門です。
延福寺の山門は、道沿いにあります。
目の前に駐車場があり、すぐに撮れます。
白漆喰の櫓門が、ちょっと武骨な感じがします^^ |
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狭い道を登った所に桂林寺があります。
ですが、入口に山門が見当たらず。
山門は、車で登って来るのとは反対側にあります。
なので、場所的には一番奥ということになります。
今とは登り口が逆だったんですね。 |
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最後は、小学校の正門になっている長屋門です。
川沿いにあり、道は車が沢山走っています。
小学校なので中に入る訳にも行かず・・・
電柱も多く、撮影に苦労しました。
でもこうして見る限りでは、とても大切にされているようです。 |
◆歴史◆
1578年、明智光秀により築かれました
明智光秀は、1575年から丹波攻略を開始。
この時、大半の丹波国人衆は明智軍に味方しました。
態度が曖昧だった赤井直正を攻めると波多野秀治が離反。
明智光秀は本願寺攻めや雑賀攻めの合間に丹波侵攻も続行。
当時は余部城を拠点としていました。
しかし、拠点として不安定だとし亀山城の築城にとりかかります。
波多野秀治の八上城を包囲中に完成。
新たに丹波攻略の拠点としました。
1582年、羽柴秀吉の城となります
明智光秀は6月1日に亀山城より出陣。
翌6月2日に本能寺の変を起こしました。
しかし山崎の戦で敗れ、羽柴秀吉の城となります。
羽柴秀吉は養嗣子の羽柴秀勝を城主としました。
羽柴秀勝は織田信長の四男ですが18歳で病死。
以後、豊臣秀勝、豊臣秀俊ら身内出身の養子を城主とします。
豊臣秀俊は豊臣秀頼の誕生後、小早川隆景の養子となります。
豊臣秀次事件に連座・改易後は、前田玄以が城主となりました。
前田玄以は関ヶ原の戦では中立を貫き、亀山を安堵されます。
1602年、天領となります
前田玄以の没後、子の前田茂勝は八上へ移されました。
関ヶ原の戦で西軍に属し、舞鶴城攻めに参加していました。
しかし、細川藤孝に降伏を勧め助けた事が評価されました。
そのため、石高は同じ5万石での移封となりました。
その後の亀山は天領となっています。
1609年、天下普請されました
岡部の黒鬼・岡部長盛が城主となりました。
岡部長盛は徳川家の譜代大名です。
徳川家康は、天下普請による亀山城の改修を命じます。
当時は全国各地で天下普請が行われていました。
これは豊臣秀頼が健在だったからです。
縄張は藤堂高虎が務め、西国大名を中心に改修。
翌年には五重の天守を備えた城が完成しました。
1632年、江戸幕府は亀山城天守の破却を決定。
命じられた堀尾忠晴が、誤って伊勢の亀山城天守を破却。
・・・なんて事件がありました。
亀山城は亀山藩の藩庁として、明治まで存続します。
明治初期の写真には、立派な天守が写っています。
1919年、出口氏が購入します
1869年、亀山藩は亀岡藩に改称されます。
伊勢・丹波の亀山問題は、ずっとくすぶっていたようです。
1877年、政府により廃城が決定。
1889年、払い下げられ転売されます。
しかし、城跡は整備されず荒れ果てたようです。
1919年、亀岡出身の出口王仁三郎氏が城跡を購入。
自らの宗教団体・大本教の拠点とすべく整備しました。
このとき、石垣を積み直しています。
1935年、政府により爆破されました
第二次大本事件により、大本教は政府の攻撃を受けました。
これは、政府が大本教によるクーデターを危惧したからです。
教義の中で日本政府の滅亡を予言。
さらに、軍部の一部と交流があったためとされます。
1921年にも第一次大本事件で弾劾を受けました。
この時にも当時本部のあった綾部の神殿が破壊されています。
治安維持法違反と不敬罪により、教団幹部が逮捕されます。
そして裁判が始まる前にも関わらず、大本教の神殿を爆破。
さらに、めぼしい石はわざわざ日本海へ沈めています。
政府は大本教を地上から消し去るつもりだったようです。
教団施設をことごとく破壊し、安価で処分しました。
1942年、治安維持法については無罪が確定。
不敬罪の裁判は、終戦により消滅しました。
戦後、亀山城址は大本教に返還されました。
出口王仁三郎氏は、再び亀山城址を復興。
現在も大本教の本部として存続しています。
所在地:京都府亀岡市荒塚町内丸 GPS軌跡ダウンロードページ
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