2023/05/13
宍人城:居館部/京都府南丹市
宍人城は、園部藩庁候補になったお城です。
訪問日は2022年8月3日です。
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宍人城は小畠館、小出館と詰城から構成されます。
今回訪ねたのは、居館部である小畠館と小出館です。
リサーチ不足で、詰城部分が抜けていました。
不覚です。
今年の夏休みにでも立ち寄ろうかと思います。
さて、居館部の小畠館と小出館は少し離れています。
元々の城主様は小畠氏でした。
小出氏は園部に来て、陣屋が出来るまでの仮住まいです。
とは言え、元々はここも陣屋の候補地でした。
小出氏と小畠氏でどのようなやりとりがあったのかは?です。
しかし、小畠氏は後に小出氏の園部城の一角を与えられます。
両者の関係は、とても良好だったものと思われます。 |
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【1】登城口にある公民館 上に戻る
登城口は宍人区公民館の奥。
その入口に白い板があり、すぐにわかります。
でも、ココは道の狭い住宅街。
いつもなら公民館脇に停めさせてもらいます。
でも、駐車スペースは奥側に1台分のみ。
空いていても躊躇われます。 |
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【2】登城口 上に戻る
登城口に立派な説明板が2枚あります。
2枚とも新しく、2020年に設置されたようです。
縄張図も載っており、探索にとても役立ちます^^
そしてここに超重要な情報が。
「駐車場200→左」とあります。
「→」は「右」だべ?なんて言わないで下さいネ。
「→」に進んだ「左」側ですから。 |
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【3】見学者用駐車場 上に戻る
ここがその駐車場です。
見学者が多いのでしょうか。
かなり広いです。
地理院の地図では建物が描かれています。
家が無くなり空いた区画を駐車場にしたようです。
砂利が新しいので最近整備されたのでしょうか。 |
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【4】北ノ出丸の切岸 上に戻る
登城口から道を進むと、左側が高くなって来ます。
ここが北ノ出丸です。
道は真っすぐですが、こちら側に入る道があります。
案内が無い場所ですが、ついついそちらに入ってしまいます。 |
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【5】北ノ出丸の切岸 上に戻る
他の曲輪にも通じますが、全般的に外周はこんな感じです。
堀や切岸で区画されますが、そんなに高くありません。 |
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【6】北ノ出丸と北ノ丸の間にある堀切 上に戻る
ただ一箇所を除いては。
それが北ノ出丸と北ノ丸の間にある堀切です。
これが一番手前にある堀なので、かなりヾ(*´∀`*)ノでした。
こういう堀がそこかしこにあるのかと思いまして。 |
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【7】土橋 上に戻る
北ノ出丸と本丸の間も堀で隔てられています。
先程よりは浅いですが。
この両曲輪をつないでいるのがこの土橋です。
堀の端にあるので、ダムっぽく見えます。
一般的に土橋って堀の真ん中にありますが・・・
こういうのもアリなんですね! |
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【8】櫓台 上に戻る
本丸の外周を時計回りに歩き南端へ。
ココの土塁が少し高くなっています。
上には櫓台の標示が立っていました。
まぁそうですよね^^
こちら側は切岸も高く、城域でも最南端です。
物見台を置くならココですよね! |
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【9】本丸南と二ノ丸南の間の堀 上に戻る
南端から西へ外周を辿ると、やがて堀が現れます。
これが本丸と二ノ丸を隔てている堀です。
字面ではとても大きな堀に見えてしまいます。
ココは元々平らな地形だったようです。
居館ですし、広過ぎても使い勝手が悪いですよね?
一族で隣り合って館を築いていたのかもしれません。 |
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【10】本丸北側の虎口 上に戻る
全般的には起伏に乏しい造形です。
それでも堀による区画はハッキリ見て取れます。
そんな中で目立つのは、本丸の虎口です。
そういえばここまで虎口見かけなかったような。
道がそのまま土塁越えちゃってますからね^^;
登城口から続く道は、曲輪の間を通ってここに通じます。
写真が下手でまっすぐに見えますが、ちょっと曲がってます。
確かカギ形だったような気がします。 |
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【11】本丸北と二ノ丸北の間の堀 上に戻る
堀は相変わらず浅いのですが、二重です^^
だんだん記憶が怪しくなってきましたが^^;
図では堀は1本、本丸側から土塁→犬走り→堀です。
ということは、手前が土塁で堀に見えるのは犬走り?
トリックアートに見えて来ました。
堀が浅いとこうも記憶があやふやになるものか・・・ |
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【12】本丸北端 上に戻る
登城路とは違うルートで城内をウロウロ。
ということで、本当はここからあちこち回るのでしょう。
登城路は低い所にあるので、曲輪が高く見えます。 |
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【13】二の丸南の土塁 上に戻る
今度は二の丸の外周をなぞるためUターン。
再び外周を時計回りに進みます。
西側には堀に沿って土塁があります。
綺麗に残っていますね^^ |
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【14】二の丸南の堀 上に戻る
土塁の外側にある堀です。
浅いのですが、形はしっかりわかります。
一直線でない所が、戦国時代らしさを感じます。
とはいえ防御拠点のような堅牢さは感じませんが。
どちらかというと、工夫を重ねた忍者屋敷のような。 |
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【15】小出館の切岸 上に戻る
続いて、北側にある小出館です。
ここは小出親吉が園部に入封した際の仮住まいです。
位置的には、小畠館よりも高い所にあります。
元々はこちらが小畠館だった?
なんて、ちょっとひねくれてますでしょうか。 |
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【16】小出館の虎口 上に戻る
こちらの虎口は、しっかりクッキリ曲がってます。
構造は戦国時代らしさを感じさせます。 |
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【17】小出館内部 上に戻る
図では小畠館より狭いですが、それでもこの広さ。
流石は3万石近い石高の大名です。 |
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【18】小出館の櫓台周りの堀 上に戻る
とは言え、基本的な構造はよく似ています。
堀が浅いのは、やはり居館だからでしょうか。
それとも時代でしょうか。
大坂の陣が終わった後ですからね。 |
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【19】小出館の横堀 上に戻る
堀は浅いですが、埋まった感じはありません。
時折こうしてしっかり見えると、嬉しくて撮りまくります^^ |
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【20】小出館の櫓台 上に戻る
居館ではありますが、しっかり櫓台があります。
しかも2か所に。
周りよりも高いですし、広さもあります。
もしかしたら、ここに天守代わりの櫓などあったりして?
一時的とは言え、大名藩主様の居館ですからね。
幕府から陣屋を城と認められませんでしたし。
少しくらい城らしさを感じさせるモノが欲しくなるのでは。 |
◆歴史◆
小畠氏の城でした
小畠氏は、出羽の清原氏の血を引くと伝わる一族です。
後三年の役の後、清原武衡の子が丹波に移ったとされます。
安倍氏といい、滅んだ名族あるあるです。
ただし、色んな家系図でその辺が一致しているのだとか。
丹波に移った清原氏は、小畠と姓を改めます。
そして、北野天満宮の荘官として船井荘に土着しました。
戦国時代にはその北天満宮の社領を押領。
国人領主として力を蓄えます。
小畠永明は明智光秀に従い、織田軍の丹波攻略にに協力。
明智姓を与えられ病状を気遣われるなど、大切に扱われたようです。
1579年、小畠永明は八上城攻めで戦死。
明智光秀はその子・伊勢千代丸の家督を保証しました。
本能寺の変後、羽柴秀吉に起請文を出し小畠氏は存続しました。
起請文を出したのは、兄の子・小畠正明や一族の小畠永好らです。
小畠正明が築いたとされます
現地の説明板では、小畠正明が築いたと書かれています。
小畠正明は明智光秀に協力した小畠永明の甥に当たります。
小畠伊勢千代は歴史に登場せず、小畠正明が継いだようです。
とはいえ、ググってみても事績がヒットせず。
次に登場するのは、小出氏が園部に入封する1619年です。
それまでの40年程の歴史は、ブラックボックスのようです。
1619年、小出館が築かれました
小出吉親が園部に入封し、園部藩が立藩されました。
それまでがどうだったのかが???ですが・・・
2万8千石の藩主となった小出吉親は、小畠氏の館に逗留しました。
京都所司代・板倉勝重の紹介だったとされます。
宍人城は、園部藩陣屋の候補地でした。
ココが園部の政治の中心地だったからだと思われます。
最終的に小麦山とその麓に陣屋が築かれることになりました。
陣屋が完成するまでの2年間、小出吉親はココで過ごしています。
小畠氏との関係が良好だったものと思われます。
小畠氏は園部藩に出仕し、園部城蓮池の東側を与えられます。
所在地:京都府南丹市園部町宍人 GPS軌跡ダウンロードページ
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