2023/05/04
田原山城/大分県杵築市
田原山城は、田原氏発祥の地とされる山城です。
訪問日は2023年5月1日です。
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田原山城は、沓掛城の南の山にありました。
某大聖典では、城へは東から行けるとあります。
登城記はネット上では1件しか見つからず。
そのルートを辿ってみました。
木ノ下橋の交差点から南東へ進みすぐに西側の細道へ。
細道は、民家が途切れるとすぐに未舗装となります。
道はみるみる荒れ、ぬかるんだり崩れたり。
途中、倒木を1つどけて進んだりしました。
嫌な音を立てつつ進み、やがて目印の田原山橋に。
そこから坂を登ると、右手前への分岐があります。
ここからひたすら荒れた林道を歩き山上へ。
開けた場所に出たら右へ進み、標高403m地点へ。
そこから北の尾根を少し下った所が城跡です。 |
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【1】田原山の山頂 上に戻る
そんな情報をキャッチ出来ずに挑んだ昨年の年末。
田原山の山頂から稜線を辿る作戦でした。
遠目にギザギザで「鋸山」の異名を持つ田原山。
さぁ稜線辿ろう!として見た光景がコレです。
田原山城は、右斜め前方の尾根上です。
これは空でも飛べなければ無理です。
そりゃそうだよね、ギザギザなのは稜線だし・・・
という事があって、今回のリベンジとなりました。 |
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【2】田原山橋 上に戻る
田原山城を訪ねる上で、目印となるのがこの橋です。
ネット上で見つかったのは、山キチ様の会報のPDFただ1つ。
道案内は、地元の人にしかわからなさそうな地名が並びます。
その中に出て来る唯一の固有名詞がこの橋でした。
思わずガッツポーズです! |
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【3】城跡へ続く林道 上に戻る
橋から坂を登ると、右斜め手前への道が現れます。
これが城跡の手前まで続く林道です。
某山キチ様はココに車を停めています。
なので私もココまで車で来ましたが・・・
車が大事な方は、なるべく早い内から歩くことを勧めます。 |
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【4】車を停めた場所 上に戻る
もうこれ以上はムリw
・・・で停めた感じです。
倒木が塞ぐような道ですからね。
あまり端ではないですが、これで精一杯。
大きな石が沢山転がり、切り返しもままならず。
こんな道は二度と走りたくありません。
地図ではこの道が南の大きな道に繋がっています。
でも、ストビューではこっちに入る道が見当たらず。
大した距離ではなさそうなので、辿ってみればよかったです。 |
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【5】荒れた林道 上に戻る
車を停めた場所からは、ひたすら林道を登ります。
某山キチ様情報は、そこら辺が少しアバウトでした。
路面は草木が生えてないだけで、完全に山の斜面です。
しかもUターン出来る所がありません。
オフ車の方でも、ここ走るとゼッタイ後悔します。 |
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【6】林道の転回場所 上に戻る
荒れた林道は、進むにつれ傾斜がキツクなります。
元車道というか、ちょっといい登山道です。
宿題をギリギリ終える感じで登り切った所がココです。
さて、ここからどっちへ進んだものかと迷います。
某山キチ様情報だと、たぶんここから右。
Google Mapのアイコンだと左です。
・・・結局両方とも見て来ましたケドw
それだけ情報が無かったというコトです。 |
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【7】まずは右側へ 上に戻る
右側には、幅の広い緩い尾根が続きます。
その左脇に、林道の最後の部分が寄り添います。
ここを車で走って何かする予定だったんですね。
一応植生はスギ林なので。 |
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【8】・403地点 上に戻る
やがて辿り着いたピークです。
GPSを確認すると、標高403メートル地点。
某山キチ様が書かれていた場所に到着です。
でも、城跡に関する情報はここまで。
城跡の位置についてはこれ以上書かれていません。
鎌倉時代の城跡なので、平らなだけというのもあり得ます。
そういう意味では、既にココが城跡なのかもしれません。
以後は完全に城キチとしての経験と勘だけが頼りです。
GPSの地形図だと、北の尾根が何となく怪しい・・・
ということで、北へ向かいました。 |
【動画】 上に戻る
せっかくなので動画を撮りました。
内容は、ココから城跡を探索する様子です。
下手な文章よりこっち見た方がわかりやすいかも^^;
迷わず歩いているのは、一度見て来たからです。
ネタバレ気味ですが、北へ向かったのは正解でした。
その先には更に驚くべき発見が! |
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【9】北側の尾根 上に戻る
・403地点から緩い尾根を下ります。
しばらくすると、尾根は幅の広い平坦地に。
戦国時代の城跡だと「馬場」がこんな感じです。
こんな所まで馬を連れて来るのかどうか?ですが。
人の手が加わった感じもしませんし。
でも、険しい山上が平らなのは不自然なのです。 |
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【10】目印の倒木 上に戻る
しばらく進むと、大きな倒木が見えて来ます。
正直邪魔だなぁと思いましたが・・・
その向こう側が一段高くなっています。
お!です^^ |
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【11】堀 上に戻る
一段高いだけだと思いましたが、手前は堀でした!
気付いたのは帰りでしたが^^;
ただ、ちょっと堀が浅くて上手く撮れず。
一番堀らしく撮れたのがコレです。 |
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【12】虎口 上に戻る
そして、木がかかる所で土塁が窪んでいます。
ここが虎口のようです。
それにしても邪魔な倒木です。
私にチカラがあれば、こんなモノどけるのに・・・
なんて、ちょっと痛いジジィですね^^;
もちろん魔法なんて使えませんヨ! |
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【13】土塁 上に戻る
そして、堀に沿ってある土塁です。
曲輪全周とはいきませんが・・・
堀に沿ってあります。
田原山城に辿り着けたと確信しました。
主郭は奥行きもありかなり広いです。 |
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【14】北の尾根先端 上に戻る
さて、辿り着いただけでは満足しません。
情報の乏しかった城跡なので、隅から隅まで堪能します!
主郭を時計回りに進み、まずは北の尾根へ。
山城に来たら、尾根は全部見なきゃデス。
大抵の場合、堀切がありますからネ!
でも、ここはハズレでした。
ただただ下り、ココで行き止まりです。 |
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【15】南東の尾根 上に戻る
更に時計回りに進み、今度は東側の尾根へ。
幅の広い尾根が緩やかに下ります。
当日は時間もあり、半日ここだけでもokな予定。
という事で、気になる所は迷わず見て回ります。 |
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【16】大堀切 上に戻る
緩い尾根を進むと、地面が何だか凄く凹ンデル!
尾根をぶった斬るソレは、まごう事なく堀切です。
しかも、超デカイヾ(*´∀`*)ノ
鎌倉時代の城跡には似つかわしくない遺構です。
こういうモノがあるのは戦国時代後期の城跡なのですが・・・
とりあえず現状を受け入れて先へ! |
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【17】大堀切の切岸 上に戻る
最初は林道の切通しかと思っていました。
でも、両端は真っすぐ奈落の底へ落ちています。
なぜこの城跡に?とは思いましたが・・・
現に在るんだからしょうがない(〃▽〃)
切岸はかなり岩っぽいです。
野面積みともちょっと違いますが、石垣でしょうか? |
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【18】大土塁 上に戻る
更に、大堀切の向こう側に登ってビックリ。
向こう側の切岸は、大きな土塁でした。
主郭側にはありませんでした。
ということは、重要度は奥の方が高い?
ということは、本当の主要部はこの奥?
これは確かめねば! |
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【19】南東尾根先端 上に戻る
しかし、土塁から先に目立った遺構はありませんでした。
土塁のある所はそれなりに曲輪っぽかったですが。
その先は堀も土塁も無くそのまま尾根に。
少し下った鞍部には堀切ナシ。
ちょっとした高台を通り過ぎると、そのまま行き止まりに。
・・・動画見た方がわかりやすそうです^^; |
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【20】Google Mapが示す場所 上に戻る
今度はGoogle Mapで田原山城のアイコンがある場所へ。
さっきしっかりした遺構を見たので、こちらは期待せず。
それでも自分の目で確認しないことには気が済みません。
もしかしたらこっちにも!なんてあり得なくはないので。
けっこうしっかり登山させられましたが・・・
こちらはただの自然地形でした。
いい加減なアイコン置かないでね、知ったかサン(# ゚Д゚) |
◆歴史◆
田原氏最初の城とされます
1213年、大友能直の第12子・泰広が田原別符の地頭となりました。
某大聖典では「12男」と書かれています。
当時の名乗りは「豊前六郎」です。
12「子」と12「男」ではだいぶ意味が違いますよね?
領地の地名から、田原泰広と改名。
後に大友家中最大勢力を誇る田原家の祖となりました。
この時に築いたのが田原山城とされます。
ただ、史料上での記載は「沓掛に」とあり、混乱を招きます。
田原山城があるのが大字大田沓掛字田原山
沓掛城があるのは大字大田沓掛字城山
・・・小字でもややこしいw
田原泰広は文永の役に従軍するなど活躍。
2代めの田原基直も弘安の役に従軍し功を挙げました。
田原基直の嫡男・田原盛直は若くして戦死。
この時に田原盛直の子・田原直平はまだ幼少でした。
そのため弟の田原直貞が3代めとなります。
田原直平は別家を興し、沓掛城へ移りました。
田原直貞は観応の擾乱で足利尊氏方として活動。
長年の功により、国東郷を与えられました。
そして4代めの田原貞広は飯塚城を築城。
田原宗家は以後、飯塚城を本拠としました。
沓掛田原氏は、悪党化し衰退したと伝わります。
田原山城も拠点として利用したのでしょうか・・・
所在地:大分県杵築市大田沓掛 GPS軌跡ダウンロードページ
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