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今市城/大分県国東市

今市城は、武蔵田原氏の本拠地でした
訪問日は2023年4月30日です。

今市城【写真位置】 大きな地図を表示

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これまで田原宗家や吉弘家の城を見て来ました。
そういえば武蔵田原家の城ってどこだろう?
大分県の城跡も大詰めを迎え、ふと疑問が沸きました。
田原親賢の妙見嶽城は後付けだし・・・
ということで調べて今市城だったと判明。
諸兄は遠景の写真1枚と「武蔵中学校が城跡」とだけ。
でも、某大聖典では「多郭式の大規模な城」とあります。
何か痕跡でも見つけられれば、と立ち寄りました。
今市城【1】
【1】志成学園 上に戻る

城跡は現在、志成学園となっています。
武蔵中学校で探しても見つからない訳です。
誰も触れませんが、藤波辰爾さんの出身校でした。
中学校は2020年に閉校し、現在は小中一貫校となっています。
今市城は堀を挟んで東西に分かれていました。
学校があるのが東城だった部分です。
今市城【2】
【2】グラウンド 上に戻る

グラウンドを造成中、抜け穴が見つかったとどこかで見ました。
後からどこで見たか探しましたが見つからず・・・
そのグラウンドがこれ?と思って撮った1枚です。
GPSを見ている内にどうも違いそうな気が。
地形図ではココ、大きな谷になっています。
城を東西に隔てた幅50メートルの堀跡のようです。
今市城【3】
【3】北側の林道 上に戻る

とは言え、そう思うのはまだちょっと先です。
訪問前に目星を付けたポイントを攻めに行きます。
まずは北に進み、林道を通って南東へ。
何か痕跡が無いか探りつつ、東側先端へ向かいました。
今市城【4】
【4】山中に入る石段 上に戻る

林道から南側には、所々に平地が見えました。
どこも草ぼーぼーですが、平坦なのがわかります。
高い確率で畑跡だと思いますが、曲輪跡かも?
そう思いながら南東へ下りました。
すると、下の道に出る直前に山中に上がる石段が。
これはもう上がるしかありません!
今市城【5】
【5】平坦地 上に戻る

石段を上がった所は平らでした。
明らかに人の手が入っています。
所々に新旧様々なお墓があります。
でも、ポツポツなんですよね。
初めから墓地という感じではありません。
場所があるから墓を建てたという感じです。
今市城【6】
【6】掘られた道 上に戻る

そんな平坦面に溝を発見。
どうやらそのまま下から上に通じているようです。
この溝を辿れば何か見つかるかも!
城のものではない可能性もありますが・・・
一縷の望みを賭けてまずは下へ。
今市城【7】
【7】溝の入口 上に戻る

そのまま下ると、麓の道近くに出ました。
外から見ると、ココから上がれるように見えません。
登城路不明な山城あるあるです。
ココがそうなのかは今もって?です。
この左奥から山中へは上がっていません。
航空写真では、学校の東側がD字型に膨らんで見えます。
こっちからも上がって見ればよかったと思いますが・・・
完全に後出しジャンケンです。
リベンジしには行きませんヨ^^;
今市城【8】
【8】東側の平坦面の1つ 上に戻る

溝を下ってみたものの、虎口など見つからず。
今度は溝に沿って登ってみました。
基本的には雑木林のプチ藪掻きです。
陽射しが無いので歩きやすかったですが。
こちら側は平坦面が段々に続きました。
曲輪っぽく見えますが、堀や土塁等は無し。
畑跡の可能性大です。
残念ムネン
今市城【9】
【9】学校の北東側に出ました 上に戻る

山中に城跡らしさを求めましたが・・・
平坦面が段になっている以外に何も無し。
そんな事を繰り返す内に学校に出ました。
嗚呼、東城の痕跡は遂に見つからず。
今市城【10】
【10】堀跡?へ 上に戻る

今度は、航空写真を見て堀だと思った場所へ。
ストビューで見つけたそこに入る道です。
今市城【11】
【11】平坦面 上に戻る

ここら辺にも、平坦面がいくつも見られます。
これらすべてが曲輪だった???
現代の諸事情を考慮すれば、耕作放棄地っぽいですが。
今市城【12】
【12】谷間 上に戻る

航空写真での予想通り、道は谷に通じていました。
城の東西を隔てた50メートルの堀?
それを直に見て確かめよう!
今市城【13】
【13】下りた所 上に戻る

途中ジメジメした所もありつつ下りました。
幅50メートルの堀、のように見えます。
それだけの規模となると地形を利用したのでしょう。
ココはまさにそんな場所に見えます。
ただ、GPSの地形図ではグラウンドの所が怪しい・・・
それならココの西側を確かめよう!
今市城【14】
【14】西側の竹藪 上に戻る

ということで、谷から西側の斜面をよっこらしょ。
すると、平坦面が段になって連なっていました。
先程の東側の斜面と同じ感じです。
こちらも土塁などは見当たらず。
西城跡の藪に堀や土塁があるらしいのですが・・・
今市城【15】
【15】西側の窪み 上に戻る

そう思い奥へ進むと、縦方向に低くなっています。
溝は妙に整っており、堀のように見えます。
城キチあるあるの目のビョーキかもしれませんが。
土塁が見つかれば合わせて一本!なのですが・・・
ついにそれらしいものは見つかりませんでした。
今市城【16】
【16】グラウンドの上 上に戻る

さて、事前にはノーマークだったのがグラウンドです。
地形図的にはここが東西を隔てる堀っぽく見えます。
グラウンドの上を横切るのがこの道です。
山の地形だと、この間に谷がある感じです。
もしそうだとすると、さっきの場所は西に行き過ぎ。
藪探索のポイントを見直す必要が出て来ました。
今市城【17】
【17】学校の校庭 上に戻る

学校の正面はグラウンドですが、南側にも校庭が。
それだけ今市城が広大だったという事なのでしょう。
抜け穴が見つかったのはこっち側だと思います。
今市城【18】
【18】グラウンドの南側 上に戻る

学校に上がる道の途中から、この道が分岐します。
奥には大きな谷が見えます。
どうやらこっちが東西を隔てた堀跡のようです。
奥には向こう側に渡る道が見えます。
どうやらグラウンドの南側に登れそうです。
西城の遺構を見られるかも!と、期待が膨らみました。
今市城【19】
【19】谷底 上に戻る

上の写真の道を進み、南側を見た所です。
堀切だとすればとんでもない規模です。
こんなのを埋めたグラウンドもとんでもないですが。
恐らくですが、今回唯一の収穫かもしれません。
今市城【20】
【20】グラウンド南側の竹藪 上に戻る

道の終点から無理やり直登した竹藪です。
上はかなり広い平坦面でした。
その端はこんな感じで細長い段になっています。
このような帯曲輪状の段が数段あります。
構造は亀城の西半分や立石城と同じような感じです。
とは言え、堀や土塁っぽいものはここでも見つからず。
某大聖典では城域は東西340×南北240メートル。
地図上で測ると、西のグラウンドから学校の東端までです。
今回は、それよりもかなり広い範囲で探索していました。
見て無い場所もかなりありますが・・・
ちょっと残念ですが、それが結果だという事で。


◆歴史◆

武蔵田原氏の城でした。

武蔵田原氏は、5代田原氏能の子・田原親昌を祖とします。
田原氏能が武蔵郷を手に入れたのは1379年頃です。
足利義満袖判下文により与えられたとされます。
この領地が庶子の田原親昌に分知されました。
田原親昌が今市城を築いたかどうかは?ですが。
武蔵田原氏については、調べてもほぼ?です。
出て来るのは椿八幡神社と田原親賢ばかりです。
田原宗家との関係などもわからず終いです。

1550年頃、田原親賢が当主となります

田原親賢は、大友義鎮の2人目の正室・奈多夫人の兄です。
2人目のってのがちょっとアレですが。
『陰徳太平記』では「九国一の美女」だそうです。
仕方ありませんネ!
奈多夫人の「奈多」は旧姓です。
ということで、田原親賢も奈多氏の出身です。
田原親賢は、奈多氏から武蔵田原氏に入った養子です。
大友家に反抗的な田原氏を分裂させる目的だったとされます。
この頃の大友家と田原氏の出来事といえば・・・
・1550年:二階崩れの変で大友義鑑が死亡
・1552年:田原親宏が赦され周防から帰国
です。
田原親宏の帰国と引き換えに、領地を削ったかもしれません。
武蔵田原氏を継いだ田原親賢は、毛利軍との戦いで活躍。
この時の功により、大友家中の頂点・加判衆の1人となります。
そして1556年、妙見嶽城を与えられます。
しかし、今市城は保ち続けたと思われます。
それは、妙見嶽城を養子の田原親盛に譲るからです。
田原親賢はその後も大友家の筆頭として活躍。
隠居して大人しくした訳ではありません。

1593年、大友家が改易されます

朝鮮での戦で、大友義統が敵前逃亡したとして改易。
田原親賢も領地を失いました。
その後は豊臣秀吉の直臣として直入郡(現竹田市)へ移封。
岡城の中川秀成の与力となります。
今市城は、以後の歴史に登場しなくなります。


所在地:大分県国東市武蔵町成吉 GPS軌跡ダウンロードページ
大分県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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