2023/05/03
今市城/大分県国東市
今市城は、武蔵田原氏の本拠地でした
訪問日は2023年4月30日です。
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これまで田原宗家や吉弘家の城を見て来ました。
そういえば武蔵田原家の城ってどこだろう?
大分県の城跡も大詰めを迎え、ふと疑問が沸きました。
田原親賢の妙見嶽城は後付けだし・・・
ということで調べて今市城だったと判明。
諸兄は遠景の写真1枚と「武蔵中学校が城跡」とだけ。
でも、某大聖典では「多郭式の大規模な城」とあります。
何か痕跡でも見つけられれば、と立ち寄りました。 |
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【1】志成学園 上に戻る
城跡は現在、志成学園となっています。
武蔵中学校で探しても見つからない訳です。
誰も触れませんが、藤波辰爾さんの出身校でした。
中学校は2020年に閉校し、現在は小中一貫校となっています。
今市城は堀を挟んで東西に分かれていました。
学校があるのが東城だった部分です。 |
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【2】グラウンド 上に戻る
グラウンドを造成中、抜け穴が見つかったとどこかで見ました。
後からどこで見たか探しましたが見つからず・・・
そのグラウンドがこれ?と思って撮った1枚です。
GPSを見ている内にどうも違いそうな気が。
地形図ではココ、大きな谷になっています。
城を東西に隔てた幅50メートルの堀跡のようです。 |
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【3】北側の林道 上に戻る
とは言え、そう思うのはまだちょっと先です。
訪問前に目星を付けたポイントを攻めに行きます。
まずは北に進み、林道を通って南東へ。
何か痕跡が無いか探りつつ、東側先端へ向かいました。 |
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【4】山中に入る石段 上に戻る
林道から南側には、所々に平地が見えました。
どこも草ぼーぼーですが、平坦なのがわかります。
高い確率で畑跡だと思いますが、曲輪跡かも?
そう思いながら南東へ下りました。
すると、下の道に出る直前に山中に上がる石段が。
これはもう上がるしかありません! |
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【5】平坦地 上に戻る
石段を上がった所は平らでした。
明らかに人の手が入っています。
所々に新旧様々なお墓があります。
でも、ポツポツなんですよね。
初めから墓地という感じではありません。
場所があるから墓を建てたという感じです。 |
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【6】掘られた道 上に戻る
そんな平坦面に溝を発見。
どうやらそのまま下から上に通じているようです。
この溝を辿れば何か見つかるかも!
城のものではない可能性もありますが・・・
一縷の望みを賭けてまずは下へ。 |
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【7】溝の入口 上に戻る
そのまま下ると、麓の道近くに出ました。
外から見ると、ココから上がれるように見えません。
登城路不明な山城あるあるです。
ココがそうなのかは今もって?です。
この左奥から山中へは上がっていません。
航空写真では、学校の東側がD字型に膨らんで見えます。
こっちからも上がって見ればよかったと思いますが・・・
完全に後出しジャンケンです。
リベンジしには行きませんヨ^^; |
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【8】東側の平坦面の1つ 上に戻る
溝を下ってみたものの、虎口など見つからず。
今度は溝に沿って登ってみました。
基本的には雑木林のプチ藪掻きです。
陽射しが無いので歩きやすかったですが。
こちら側は平坦面が段々に続きました。
曲輪っぽく見えますが、堀や土塁等は無し。
畑跡の可能性大です。
残念ムネン |
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【9】学校の北東側に出ました 上に戻る
山中に城跡らしさを求めましたが・・・
平坦面が段になっている以外に何も無し。
そんな事を繰り返す内に学校に出ました。
嗚呼、東城の痕跡は遂に見つからず。 |
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【10】堀跡?へ 上に戻る
今度は、航空写真を見て堀だと思った場所へ。
ストビューで見つけたそこに入る道です。 |
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【11】平坦面 上に戻る
ここら辺にも、平坦面がいくつも見られます。
これらすべてが曲輪だった???
現代の諸事情を考慮すれば、耕作放棄地っぽいですが。 |
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【12】谷間 上に戻る
航空写真での予想通り、道は谷に通じていました。
城の東西を隔てた50メートルの堀?
それを直に見て確かめよう! |
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【13】下りた所 上に戻る
途中ジメジメした所もありつつ下りました。
幅50メートルの堀、のように見えます。
それだけの規模となると地形を利用したのでしょう。
ココはまさにそんな場所に見えます。
ただ、GPSの地形図ではグラウンドの所が怪しい・・・
それならココの西側を確かめよう! |
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【14】西側の竹藪 上に戻る
ということで、谷から西側の斜面をよっこらしょ。
すると、平坦面が段になって連なっていました。
先程の東側の斜面と同じ感じです。
こちらも土塁などは見当たらず。
西城跡の藪に堀や土塁があるらしいのですが・・・ |
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【15】西側の窪み 上に戻る
そう思い奥へ進むと、縦方向に低くなっています。
溝は妙に整っており、堀のように見えます。
城キチあるあるの目のビョーキかもしれませんが。
土塁が見つかれば合わせて一本!なのですが・・・
ついにそれらしいものは見つかりませんでした。 |
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【16】グラウンドの上 上に戻る
さて、事前にはノーマークだったのがグラウンドです。
地形図的にはここが東西を隔てる堀っぽく見えます。
グラウンドの上を横切るのがこの道です。
山の地形だと、この間に谷がある感じです。
もしそうだとすると、さっきの場所は西に行き過ぎ。
藪探索のポイントを見直す必要が出て来ました。 |
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【17】学校の校庭 上に戻る
学校の正面はグラウンドですが、南側にも校庭が。
それだけ今市城が広大だったという事なのでしょう。
抜け穴が見つかったのはこっち側だと思います。 |
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【18】グラウンドの南側 上に戻る
学校に上がる道の途中から、この道が分岐します。
奥には大きな谷が見えます。
どうやらこっちが東西を隔てた堀跡のようです。
奥には向こう側に渡る道が見えます。
どうやらグラウンドの南側に登れそうです。
西城の遺構を見られるかも!と、期待が膨らみました。 |
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【19】谷底 上に戻る
上の写真の道を進み、南側を見た所です。
堀切だとすればとんでもない規模です。
こんなのを埋めたグラウンドもとんでもないですが。
恐らくですが、今回唯一の収穫かもしれません。 |
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【20】グラウンド南側の竹藪 上に戻る
道の終点から無理やり直登した竹藪です。
上はかなり広い平坦面でした。
その端はこんな感じで細長い段になっています。
このような帯曲輪状の段が数段あります。
とは言え、堀や土塁っぽいものはここでも見つからず。
某大聖典では城域は東西340×南北240メートル。
地図上で測ると、西のグラウンドから学校の東端までです。
今回は、それよりもかなり広い範囲で探索していました。
見て無い場所もかなりありますが・・・
ちょっと残念ですが、それが結果だという事で。 |
◆歴史◆
武蔵田原氏の城でした。
武蔵田原氏は、5代田原氏能の子・田原親昌を祖とします。
田原氏能が武蔵郷を手に入れたのは1379年頃です。
足利義満袖判下文により与えられたとされます。
この領地が庶子の田原親昌に分知されました。
田原親昌が今市城を築いたかどうかは?ですが。
武蔵田原氏については、調べてもほぼ?です。
出て来るのは椿八幡神社と田原親賢ばかりです。
田原宗家との関係などもわからず終いです。
1550年頃、田原親賢が当主となります
田原親賢は、大友義鎮の2人目の正室・奈多夫人の兄です。
2人目のってのがちょっとアレですが。
『陰徳太平記』では「九国一の美女」だそうです。
仕方ありませんネ!
奈多夫人の「奈多」は旧姓です。
ということで、田原親賢も奈多氏の出身です。
田原親賢は、奈多氏から武蔵田原氏に入った養子です。
大友家に反抗的な田原氏を分裂させる目的だったとされます。
この頃の大友家と田原氏の出来事といえば・・・
・1550年:二階崩れの変で大友義鑑が死亡
・1552年:田原親宏が赦され周防から帰国
です。
田原親宏の帰国と引き換えに、領地を削ったかもしれません。
武蔵田原氏を継いだ田原親賢は、毛利軍との戦いで活躍。
この時の功により、大友家中の頂点・加判衆の1人となります。
そして1556年、妙見嶽城を与えられます。
しかし、今市城は保ち続けたと思われます。
それは、妙見嶽城を養子の田原親盛に譲るからです。
田原親賢はその後も大友家の筆頭として活躍。
隠居して大人しくした訳ではありません。
1593年、大友家が改易されます
朝鮮での戦で、大友義統が敵前逃亡したとして改易。
田原親賢も領地を失いました。
その後は豊臣秀吉の直臣として直入郡(現竹田市)へ移封。
岡城の中川秀成の与力となります。
今市城は、以後の歴史に登場しなくなります。
所在地:大分県国東市武蔵町成吉 GPS軌跡ダウンロードページ
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