2023/04/25
亀城/大分県国東市
亀城は、戦国時代の田原宗家の城でした。
訪問日は2022年12月31日です。
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亀城は、飯塚城が洪水被害に遭い築かれた城です。
飯塚城よりも上流側にあり、標高もあります。
しっかりとした山城ですが、知名度はあまりありません。
歴史の表舞台に登場しなかったせいかもしれませんが。
田原宗家の城と言うと飯塚城と安岐城ばかりが出て来ます。
それはここが避難所的な役割だったからかもしれません。
しかし、それなりの規模と遺構がバッチリ見られます。 |
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【1】車を停めた場所 上に戻る
知名度もあまりないせいか、登城記はかなり少ないです。
そんな中、某大御所様は北西から登ったと記されています。
東側の神社の麓は民家の敷地を通るらしく・・・
ということで、北西の登城口を目指しました。
北側の道を走ってると、ここに停められそう!
ということでココに駐車しました。 |
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【2】登り口 上に戻る
某大御所様が登られたのはもっと西ですが・・・
駐車場所のすぐ近くに、白いガードレールが見えました。
これはここから登れる?
直感的にそう感じたのでここから登りました。 |
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【3】ガードレール沿いに登った所 上に戻る
北東側から登る道はちょっと草深かったですが・・・
北西側から登って来る道と上で合流。
大御所様が登って来られた側は草が刈られていました。 |
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【4】虎口? 上に戻る
上の北側は特に何も見当たらず。
西端のここからは段差が見られるようになります。
城域は山上の東半分とされます。
なので城の遺構ではないと思われますが・・・
明らかに人の手が加わった土の造形です。 |
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【5】段差に埋もれる石列 上に戻る
西端からは、南側に数段の段差があります。
その段には、補強するように石が埋もれています。
とは言え城域とはされない西側。
戦国時代以降の畑のものかもしれません。 |
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【6】中央付近 上に戻る
山上の段差に沿って進み中央付近に。
ここで段差の様子が少し変わります。
向こう側(東側)が少し高くなっています。
その手前が少し低いような・・・! |
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【7】西側の堀 上に戻る
そう思っていたら、幅の広い堀でした。
ここで山上が東西に隔たれています。
平らなので別にいいじゃんって思いますが・・・
広過ぎて使い切れなかったのでしょうか。 |
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【8】オテンス 上に戻る
堀のやや北寄りに大きな土盛りがあります。
これがオテンスと呼ばれる櫓台です。
漢字で御天守と書きそうな・・・
きっとそうに違いないですが。
それにしても山上の中央部。
ここから見渡すとすれば北東側でしょうか。
でもそれなら、東端にあった方が良さげですが。 |
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【9】土橋 上に戻る
オテンスの下だけ、堀が浅くなっています。
状態としては土橋のようになっています。
それでもオテンスに登る感じではありませんが。
往時がどんな感じだったのか、ちょっと想像出来ません。
そもそもコチラ側が防御面だったのかどうやら。 |
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【10】東側の堀 上に戻る
中央部の堀は、二重堀になっています。
こちらはその東側の堀です。
西側の堀と比べると幅が狭くなっています。 |
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【11】東側の堀 上に戻る
それでも深さは同じ位あります。
幅が狭いので、鋭く見えます。
深さは2、3メートルあるので、簡単には登れません。 |
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【12】東側の堀 上に戻る
こちらは土橋はありません。
山上を南北に貫いています。
平坦な山上を真ん中で二重堀で隔てています。
なぜこんな造りになったのかが?です。
東西でキッチリ分ける必要があったのでしょうか。 |
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【13】南東側の帯曲輪 上に戻る
東側も南に帯状の曲輪が並行します。
この帯曲輪は、堀切の底よりも低い位置にあります。
なんだかんだ言ってもお城です。
簡単には城内を行き来出来ないようになってます。 |
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【14】南東側の帯曲輪 上に戻る
東へ進もうとすると、どうしても帯曲輪に出ます。
帯曲輪からと主郭は、人の背よりも高い段差があります。 |
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【15】堀底 上に戻る
先程は二重堀の間の上からでしたが、今度は堀底を北へ。
西半分はのっぺりしていたのでついはしゃぎます。
ここは下草があまり無いので、かなり歩きやすかったです。 |
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【16】主郭 上に戻る
堀から上がって見た主郭です。
広くて平らです。
山城の主郭は、いつも同じコメントになります。
この写真だけだと、ただの山の中ですからね。
どうしてもそうなっちゃいます(汗) |
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【17】北側から見た東側の堀 上に戻る
他に見所が無かったせいか、この堀の写真ばかりです。
堀好きなので私は飽きませんが・・・
奥の高い所がオテンスです。 |
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【18】主郭東端 上に戻る
時計回りに外周を進みました。
主郭の端には土塁が無く、ただ平坦面の端を進みます。
そのまま東端に来ると、数基のお墓があります。
埋もれてないので、今でもお参りに来られているようです。 |
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【19】亀城神社 上に戻る
東端の一段下に神社があります。
鳥居に名前が彫られていましたが、超達筆で読めず。
どうやら「亀城神社」と読むようです。
神社自体はこんな感じで廃れてしまっています。
この正面に、下りて行く道がありました。
民家の前に出ると思い下りませんでしたが。。。
こちら側からも普通に登って来れるようです。 |
ということで、亀城の「気掛かり」を確かめて来ました。
訪問日【再】は2023年5月1日です。
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亀城東端にある神社。
普通に考えれば、そのすぐ下に参道があるはず。
そう考えると居ても立ってもいられず・・・
という程でもありませんがw
丁度近くに来たので、立ち寄ってみました。 |
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【A】東側の登城口 上に戻る
亀城のある独立丘陵の東側に道が1本あります。
この道沿いに、鳥居があります。
亀城神社のものに違い無い!
そう思った光景です。
車はココか、南東の公民館に停められます。 |
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【B】鳥居 上に戻る
民家の敷地に入らず登れる!
そう思いワクワクした光景です。
でも、この石段はすぐに行き止まり。
下から見てすぐにそうだとわかります。
あれ?と思ったのですが・・・
左側に登っていく道があります。 |
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【C】大分県名物 上に戻る
多分こっちから上がるんだよね?と半信半疑。
でも、道端の木陰にありました!
大分県名物のオレンジプレート!
ここから城跡へ上がれると確信した瞬間です。 |
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【D】登城路 上に戻る
神社への道ですが、直線ではありません。
掘られた道が、グネグネと続きます。
どうやら城に上がる道をそのまま利用したようです。
傾斜はそれなりにキツイですからね!
(真正面は30度以上ありそうです) |
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【E】石垣 上に戻る
途中、石垣に遭遇しました。
ここだけですし、少し脆い感じ。
多分、神社のものと思われます。
そう思いながらもつい撮るのが城キチです。 |
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【F】虎口 上に戻る
道が曲がる両サイドが平坦になっています。
上から見ると、道を挟む番所のように見えます。
東側の登城路では、こんな光景が数段見られます。 |
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【G】亀城神社 上に戻る
そして、あっという間に亀城神社に到着。
登城時間は約5分。
それまでの間、城跡らしさを感じられました。
こっち側から登った方が楽しめます♪ |
◆歴史◆
1544年、飯塚城が洪水被害に遭いました
飯塚城は、当時の田原宗家の本拠地でした。
その飯塚城が洪水被害に遭い、居館が半壊。
そのため亀城を築いたとされます。
しかし、当主の田原親宏は出雲、のち大内家に居ました。
大友義鑑に年寄を解任され、追放されたとされます。
何があって追放されたのかは定かではありませんが・・・
追放されたのが、どうも当主本人だけっぽい感じです。
その間の田原宗家領の扱いがどうだったのかも?です。
大内家と和睦後、目立った戦が無かったからかもしれません。
留守を守った田原一族が、高台に避難したものと思われます。
ところでその追放先で何があったかと言うと・・・
1543年、大内義隆は尼子家の月山富田城を攻め大敗。
この戦で後継ぎの養子・大内晴持が戦死しました。
以後、大内義隆は覇気を失います。
1544年、大内義隆は大友義鎮の弟・塩乙丸を養嗣子に迎えます。
この時に元服し、将軍から偏諱を与えられ大内晴英と改名。
しかし1545年、大内義隆に実子・大内義尊が生まれ猶子解消。
1551年、陶隆房が台頭し、大内晴英を次の当主に要望。
大内義隆とは、次の当主を巡り対立していたのでした。
その年の9月、陶隆房が大寧寺で大内義隆を討ちました。
そして1552年、大内晴英が山口に迎えられました。
大友義鎮は「傀儡にされる」と反対したそうです。
田原親宏は追放されたのではなく大内家中を探っていたのでは?
・・・なんて異説を立てたくなるような時期でした。
1552年、田原親宏が復帰しました
二階崩れから2年経ち、大友義鎮に許され復帰。
以後、毛利軍との戦いで大活躍しています。
田原親宏の城としては、安岐城がよく登場します。
不在の間に築かれた城が気に入らなかったのでしょうか。
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