2023/04/22
吉弘城/大分県国東市
吉弘城は、吉弘氏初期の本拠地でした。
訪問日は2022年12月31日です。
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城は「吉広城」とも表記されます。
吉弘氏初代・吉弘正賢により築かれました。
鎌倉時代末から室町時代始めの人物です。
麓には吉弘楽で有名な楽庭八幡社があります。
ほぼ単郭の小さな山城で、横堀で囲まれています。 |
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【1】案内 上に戻る
城跡までは、北の県道から案内があります。
この案内を見つければ、迷う心配はありません。 |
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【2】駐車場 上に戻る
西側の林道から脇道に入り、駐車場に至ります。
これだけ広い平地があるという事は、やっちまった?
この奥にある主郭よりも、駐車場の方が広いです。
そういう目で見ると、駐車所の周りもよく見ておけば。。。
というのは、一歩引いた目でないと思いつきません。
当日は「便利だ!」としか思いませんでしたので(汗) |
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【3】入口 上に戻る
城跡への入口です。
本当は裏側のはずですが。
手前に特徴的な生垣があります。
この生垣の裏に、小さな堀切があります。
何だか、色々な意味でやっちゃった感が漂います^^; |
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【4】横堀 上に戻る
その堀切から左右に横堀が続きます。
まずは左側から。
堀というには浅い気もしますが・・・
帯曲輪というには狭過ぎます。
どちらかと言えば、横堀な気がします。 |
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【5】奥の方 上に戻る
横堀といえば、一周するのが私の流儀。
扱いが雑な所が多いので、そのまま藪掻きとなるのが常です。
吉弘城の横堀はというと、だんだん細くなります。
そして、裏に着く前に無くなります。
無理やり歩いた跡がありますが・・・
私はそこまではしません(`・ω・´) |
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【6】反対側の横堀 上に戻る
正面に戻り、こんどは反対側へ。
一周するのが私の・・・ですからネ!
こちら側も綺麗に残っています。 |
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【7】こっちがわの奥 上に戻る
結末は知ってるものの、行ける所まで行きます。
行ける所まで、というのがココでした。
堀はまだ奥へと続いています。
でも、ミッシリと藪で覆われています。
まだ見ぬ堀が続くなら潜りますが・・・
結末を知っているので、ここまでで引き返しました。 |
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【8】上から見たさっきの所 上に戻る
今度は一段上がり、外周に沿って歩きました。
それで上から見たさっきの行き止まりです。
見る事の出来なかった先の形くらいわかると思いましたが・・・
堀の形もわからぬ程、草が覆い尽くしています。
潜って行かなくてヨカッタ |
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【9】外周 上に戻る
主郭はこんもりと盛り上がっています。
その外周だけこんな感じで平らになっています。
城の曲輪といえば平らなのが普通です。
平らじゃない吉弘城に、建物があったのか?です。 |
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【10】城址碑 上に戻る
主郭の一番高い所に城址碑があります。
ココのも一点モノですヾ(*´∀`*)ノ
写真でもわかりますが、全く平らではありません。
吉弘氏は100年程ココを本拠としました。
特に要害性があるとも思えず。
南北朝時代のお城だからなのかもしれませんが。 |
◆歴史◆
吉弘氏初期の居城でした
吉弘氏は、田原直貞の次男・正賢を祖とします。
その吉弘正賢により建武年間(1333~1338年の間)に築かれました。
吉弘正賢は父・田原直貞(正曇)に従い各地を転戦。
筑後にも領地を与えられるなど活躍しました。
姫嶽合戦以後、都甲地区に移りました
姫嶽合戦は1431年、大友持直が討伐された戦です。
吉弘直意は大友持直の偏諱を受け、従っていたと思われます。
一方、子の吉弘綱重は1437年には都甲地区に入部しました。
父とは逆に、大友親綱に従っていたようです。
都甲地区は六郷山の総本山・長安寺のある場所です。
「六郷」は国東半島にある6つの郷を指します。
姫嶽合戦以前は、宇佐一族の都甲氏が支配していました。
都甲氏は領地を没収され、代わって吉弘氏が入ったようです。
吉弘綱重の男子・円仲が六郷山執行に就任。
六郷山執行は、在地武士に対して軍事指揮権を持っていました。
大友親綱は、国東半島の掌握を狙ったようです。
吉弘氏は次第に都甲地区に移り、筧城・屋山城を築きます。
吉弘城の麓には菩提寺の永泰寺があります。
ここにある吉弘氏歴代の墓は、吉弘綱重の孫までです。
所在地:大分県国東市武蔵町吉広 GPS軌跡ダウンロードページ
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