2023/04/14
坂本城/大分県日田市
坂本城も、日田八奉行の城でした。
訪問日は2022年12月30日です。
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坂本城は、別名・原城とも呼ばれます。
読みは「はるのじょう」「はるんじょう」など。
麦焼酎いいちこの蒸留所の南の山中にあります。
車は南東側入口前の空き地に停めました。
入口に説明板があり、真っすぐ城内に通じています。
城跡は部分的に外周に土塁が残っています。 |
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【1】登城口 上に戻る
南東側の登城口です。
道に面した所にあります。
真新しい説明板が目印です。 |
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【図】説明板の図 大きく表示
説明板に載っている図です。
とてもわかりやすいです。
しかし、訪問前にネットでは見つからず。
それぐらい新しいのかもしれませんが。
これを見ながらだったら、見落としは無かったかもです。 |
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【2】奥へ続く道 上に戻る
登城口から城跡へ続く道です。
斜面に沿って細道が続きます。
右側の高い所が城跡です。
往時からこの道はあったのかどうか。
もしあれば、上から狙い撃ちされますね^^; |
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【3】主郭 上に戻る
あっという間ですが主郭です。
思っていたよりもかなり広いです。
山城なのでもっと草木があると思っていました。
これなら真夏でも散策出来そうです。 |
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【4】土塁 上に戻る
上がって来たまま進むと、外周に沿って窪んでいます。
横堀というには浅く、帯曲輪でもなし。
地理院の地図では、この溝が道として描かれています。
このまま真っすぐ南西尾根に続きますが・・・
私はそこが虎口と気付きませんでした(汗) |
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【5】北西側の虎口 上に戻る
外周に沿って進むと、北西側に変化が見られます。
このザックリ外側に掘られた所が虎口です。
城跡への出入口は数箇所ありますが・・・
説明板の図で虎口と書かれているのは2か所だけです。
ここがその内の1つです。
もう1つはさっき見落とした南西です。 |
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【6】北西側の虎口 上に戻る
とは言え、当日はここが虎口とは思わず。
とりあえず大きな変化があったので撮りまくりました。
図を見た後なので虎口として見ますが・・・
外に続く道がよくわかりません。
「山城あるある」なのかもしれませんが。 |
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【7】土塁 上に戻る
北側にはハッキリとした土塁があります。
南東から見て来て、ようやく現れました。 |
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【8】北東側の虎口 上に戻る
更に進むと、城外に出る道がありました。
虎口かと思ったのですが、あまりに真っすぐです。
ここが一番広い出入口ですが、図には何も書かれていません。
やっちまった系の後付け虎口のようです。 |
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【9】堀 上に戻る
まぁでも、好奇心の塊はとりあえず進みます。
下りた先は、大きな堀になっていました。 |
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【10】堀 上に戻る
反対側は、よりハッキリと堀切らしくなっています。
いつもなら「どれどれ」と見に行くのですが・・・
割とすぐの所で倒竹が絡まっています。
これが目に付いたので行きませんでした。
ちょっと右脇に避ければ奥まで行けそうですが。
現場の興奮状態では、そこまで見えていませんでした。 |
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【11】東側の土塁 上に戻る
後付け虎口から戻り、外周巡りも大詰め。
土塁は大堀切に沿って付けられています。
東側の尾根付け根側に備えた造りのようです。 |
◆歴史◆
日田八奉行・坂本氏の城でした
日田八奉行ということで、城主様は大蔵一族です。
大蔵氏は、平安時代から日田一帯を治めた大領主です。
源平合戦を乗り越え戦国時代まで続きました。
しかし、1432年に家督争いにより本家は滅亡。
大友家から養子を迎えて復興しますが、1548年に再び滅びます。
そこで大友義鑑は、日田郡を統治するため6名を郡老を任命。
坂本伯耆守鑑次もその中の1人でした。
後に2名を加え、日田八奉行と呼ばれるようになります。
大蔵一族とされますが、坂本氏の出自はわかっていません。
日田八奉行の筆頭と考えられています
1549年、大友義鑑が日田八奉行の高瀬氏を討伐。
命令を受けたのは坂本伯耆守で、一族の坂本因幡守が討ち取りました。
坂本城が坂本因幡守の城みたく書く方もいますが・・・
坂本因幡守の城は、別にあります。
高瀬氏は坂本因幡守の城に呼ばれ、その間に高瀬城を攻められたのでした。
日田八奉行は、同じ大蔵一族の筈ですが・・・
財津氏を追放・復帰させたり、互いを討伐させたりしています。
大友氏は、日田衆が結束し力を持つのを恐れたのかもしれません。
坂本備中守が活躍します
1578年、耳川の戦で大友軍が島津軍に大敗。
すると、筑後の秋月氏が大友氏に叛旗を翻しました。
大友義鎮は最前線となった日田衆に秋月氏を攻めさせます。
この時に坂本備中守(道烈)と財津龍閑が活躍します。
1579年の『大友家文書録』では綱文に登場。
『大友興廃記』では侍大将と書かれています。
1589年に実施された指出検地では最初に登場。
知行田畠は176町9反と最多で、坂本姓の人物が他に20名程登場します。
坂本備中守は、朝鮮出兵にも出陣。
『豊後国諸侍着到』では日田郡衆の最初に登場します。
大友家改易後は佐伯に移りました
その朝鮮の役で、大友義統が敵前逃亡したとして改易。
日田郡は豊臣秀吉の蔵入地となりました。
大友家の日田奉行は、それぞれの道を歩みます。
坂本氏は、日田の代官となった毛利高政に仕えます。
毛利高政は1596年には佐伯の代官も兼任。
1601年には佐伯に移り、佐伯藩を立藩します。
時期はわかりませんが、坂本氏は佐伯藩の家老となります。
佐伯は国木田独歩が有名ですが、下宿していたのが坂本邸でした。
坂本家の屋敷は現在、国木田独歩館となっています。
所在地:大分県日田市西有田 GPS軌跡ダウンロードページ
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