2023/02/11
大蔵古城/大分県日田市
大蔵古城は、日田氏の城でした。
訪問日は2022年12月30日です。
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別名は日田城、高城、鷹城など。
長く日田を支配した大蔵氏(日田氏)の城でした。
慈眼山公園の一部ですが、城跡の大部分は山林となっています。
高城から東側に曲輪が連なり、大手は東側だったと思われます。
現状は南西の石段から細尾根を通り、城跡へアクセスします。 |
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【1】川沿いにある駐車場 上に戻る
西側の花月川沿いに車を停められます。
この川は2012年の九州北部豪雨で氾濫しました。
その対策として河川改修が行われました。
ここもその時に整備されました。
城跡から近いので、安心して停められます。 |
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【2】永興寺の石段 上に戻る
登城口となる石段です。
斜面を一直線に登ります。
こんな感じなので、往時は無かったでしょう。
とは言え、山城へアクセス出来るのは有難いことです。 |
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【3】鐘撞堂 上に戻る
石段の上に永興寺があります。
城域内であれば、物見といった感じの場所です。
ここから日田市内を一望出来ます。 |
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【4】上がる場所 上に戻る
お寺の背後の尾根とは段差があります。
写真では見えませんが、右奥のここに階段があります。
もしかしたら、往時からの隠し通路かもしれません^^ |
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【5】郡代塩谷の碑 上に戻る
階段を上がってからは細尾根となります。
割と平坦で、普段見て回る山城サイズ位はあります。
予備知識無しで「ここが主郭だよ」と言われたら信じたかもデス。
「郡代塩谷」は、江戸時代後期の日田代官・塩谷正義です。
天領・日田の代官として善政を敷き、こうして石碑が建てられています。
昨年夏休みに訪ねた久美浜(丹後国)の代官も務めた人物でした! |
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【6】平坦面 上に戻る
石碑の背後には、ちょっとした平坦面があります。
ここが城の何だったのかがわかりません。
上から見ると平らに見えますが、削平は甘いです。
もしかしたら、お寺の跡なのかもしれません。 |
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【7】堀切 上に戻る
北側は土塁状に高くなっていて、こんな窪みもあります。
細尾根なので、ここを断ち切っていてもおかしくありません。
すぐ脇にさっきのがあるので、簡単に通れてしまいますが。 |
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【8】物見台的な場所 上に戻る
左脇の土塁状の中に、ひと際高い場所があります。
西側に飛び出す感じになっており、物見台かもしれません。
今は木々に覆われ、周囲は全く見えませんが。 |
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【9】段になった平坦地 上に戻る
少し高い場所なので振り返ると、こんな感じです。
さっきの削平が甘い平坦地が段々に連なっています。
城の施設でないなら、完全にお寺の跡ということになります。
それにしてはかなりの規模ですが。 |
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【10】高城の切岸 上に戻る
再び細尾根を進むと、目の前に高台が現れます。
この高台の上が、大蔵古城の主郭(高城)です。
城キチ的には登れない高さではありませんが・・・ |
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【11】高城(主郭2)に上がる所 上に戻る
もう少し進むと、普通に上がれる場所があります。
とは言え、これも往時のものではなさそう。
でも、往時のものかもしれません。
虎口的な感じではないので迷います。
上の端に柵ぐらいあったでしょうし・・・
横から防ぎやすい上がり口だったのかも^^; |
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【12】高城(主郭2) 上に戻る
ここが主郭2と位置付けられる高城です。
上がった所から、細長く3段になっています。 |
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【13】高城(主郭2)から見た古城(主郭1) 上に戻る
高城の右下には、かなり広大な平坦地が見えます。
これが古城(主郭1)と呼ばれる曲輪です。
高城とは高低差があり、直接下りられません。
写真ではそんな風には見えませんが^^; |
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【14】高城(主郭2) 上に戻る
高城の最上段です。
南北に細長い平坦地です。
南西には低い土塁があり、その外側は断崖となっています。
北端には、一段低く小さな平場があります。
何かを隠すような感じの場所に感じられました。 |
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【15】古城(主郭1) 上に戻る
高城から見えてしまった古城。
見えてしまったからには寄らずには気が済みません。
直接下りるのはキツそうなので、回り込みました。
高城に上がった辺りは下が犬走りっぽい感じになっています。
そこを上がったり下がったりを繰り返して辿り着きました。
行ってみると、上から見た以上にとても広い場所でした。 |
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【16】虎口っぽい所 上に戻る
とても広いので、外周をトレース。
藪や倒木で端を歩けない場所も多々ありました。
それでもなるべく端を歩くと、下に道っぽいものが。
東端のココは、上から見ると虎口に見えます。
今思えば下りて見て来れば良かったのですが・・・
黒なぽさんは、こんな時だけ面倒臭がりです。 |
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【17】虎口っぽい所 上に戻る
南東の下りて来た方は、自然の為すが儘です。
木々が思い思いに茂り、行く手と視界を遮ります。
そんな中、地形に人工的なものを感じる場所が。
ここも虎口だったのかもしれません。 |
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【18】南東側斜面 上に戻る
高城から古城へは、こんな感じの所を進みました。
写真は整った場所のように見えますが・・・
実際は木々に埋もれ、突然行き止まりに。
そんなこんなで上がったり下がったりの繰り返し。
行きに目印付けなかったので、帰りに迷いました^^;
何となく方向はわかるものの、戻るツテがサッパリわからず。
プチ遭難♪なんて、ちょっとワクワクしちゃいました。 |
◆歴史◆
大蔵氏(日田氏)の城でした
日田氏は、851年に日田郡司職となった大蔵永弘を祖とします。
とはいえ謎多き人物で、出自は諸説あります。
さらに計算上では200年以上生きたことになり・・・
伝承の人物扱いとなっています。
史料上で実在が確かなのは大蔵永季以降です。
相撲の名手で「相撲節会」では10回出場し無敗でした。
大蔵永季を祀る日田神社は、相撲の神として祀られています。
大蔵系日田氏による日田郡司職は、室町時代まで続きます。
1444年、大蔵系日田氏が滅びます

日田永秀の死後、家督争いが起きました。
その経緯が諸説ありよくわかりません。
【諸説①】
日田永秀死去
→日田永包が家督を継ぐ
→追放されていた日田永好が日田永包を暗殺
→日田永好が逃亡先の美濃で殺害される
【諸説②】
日田永秀死去
→幼主・七郎丸の家督相続に反対した日田永好が成敗される
→日田永好の家臣が七郎丸を暗殺
といった感じで、どっちがどっちを殺したのか?です
とは言え、両名とも世を去り日田氏が断絶。
日田氏の娘を娶っていた大友親満が日田家を継承します。
ここから、日田氏は大友氏系となります。
しかし、大友家からは独立した存在でした。
1548年、大友系日田氏が滅びます
日田永世は後継ぎが生まれず、大友親常を養子に迎えました。
大友親常は大友親繁の子で、日田永世の甥にあたります。
日田親常は子の親有に家督を継がせます。
大友宗家で大友政親・義右父子が争いました。
両者の争いには、宿敵・大内氏も介入しました。
両者死亡により、大友政親の弟・親治が当主となります。
大友親治は、家中の不穏分子を粛清しました。
日田親有はこの時、暗殺されたとも討死したとも伝わります。
断絶した日田家は、大友親明の子・親賢が継ぎました。
こんな感じで、日田氏は完全に大友氏の一族となっています。
次の代の日田親将は、悪政のため日田郡士らと対立します。
そのため1548年、大友義鑑は日田親将を解任し自害させました。
以後、財津氏、坂本氏ら大蔵系日田氏の一族の6名が郡老に任命。
後に2名追加され、日田八奉行により日田郡は統治されます。
日田親将の子・日田親永は、成人後に大友義統に仕え朝鮮で戦死。
日田親永の子は財津氏に育てられ、ともに肥後細川家に仕えました。
所在地:大分県日田市北豆田 GPS軌跡ダウンロードページ
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