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日隈城/大分県日田市

日隈城は、短命だったお城です。
訪問日は2022年12月30日です。

日隈城【位置】
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城は川の合流点にある独立丘陵の亀翁山にありました。
日田市の中心部に近く、平時の支配拠点には最適です。
現在は亀山公園になっています。
遺構は曲輪と大手門跡が見られます。

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日隈城【1】
【1】橋から 上に戻る

平地にある平山城。
しかも川沿いなので、全体を見渡すことが出来ます。
南側から見た所がよく紹介されるので、私は北から。
だって、天邪鬼ですから。
日隈城【2】
【2】大手 上に戻る

北側の広い場所です。
ネットで拾った縄張図では、大手と書かれている場所です。
縄張図の土手の外側が、道になっていると思われます。
公園前はかなり広いですが、花壇が置かれ駐車不可。
駐車場は9時~17時利用可能というのが事前情報でした。
当日回る順番の都合で、近くに泊まって歩いて来たのですが・・・
訪ねてみると、12月28日~1月10日は解放と貼ってありました。
知ってたら車で来たのですが^^;
日隈城【3】
【3】せせらぎ水路 上に戻る

麓の公園には、目立つ水場があります。
城跡だから庭園かもしれないと思っていました。
ここは夏に水遊びが出来る場所です。
川から水を引くための水門もあります。
上述の縄張図では、からぼりと書かれています。
埋め戻さず、手を掛けずに利用したのかもしれません。
日隈城【4】
【4】川沿い 上に戻る

土手の外側に溝があります。
縄張図には何も描かれていません。
溝は、奥(南)へ行くほど浅くなっています。
もしかしたら船着場跡?と思い撮りました。
土手が新しいので、その可能性は低そうですが。
城キチのとりあえず撮りです^^;
日隈城【5】
【5】鳥居と道 上に戻る

土手を奥へ進むと鳥居があります。
ここから城山に登る細い道があります。
雰囲気的には搦手道でしょうか。
日隈城【6】
【6】登り切った所 上に戻る

斜面の細道を上がった所が開けていました。
縄張図だと、複雑に土塁が入り組んでいます。
虎口のようですが、面影がありません。
日隈城【7】
【7】神社に上がる石段 上に戻る

そして神社に上がる石段があります。
見た感じ、城の時には無かったような。
縄張図にも道はありませんし。
日隈城【8】
【8】日隈神社 上に戻る

石段の上にある日隈神社です。
一番高い所なので、主郭ですね!
元々は春日神社があったものの遷座。
江戸時代末期にココに戻ってきました。
明治に入り、初代日田県知事・松方正義が神社を創建。
尊王の時代らしく、後醍醐天皇と楠木正成が祀られています。
松方正義は後に総理大臣になっています。
日隈城【9】
【9】帯曲輪 上に戻る

主郭の一段下は、こんな感じの平坦地が囲んでいます。
城の構造的には帯曲輪っぽいですが、通路かもしれません。
というのも、縄張図ではここを通って主郭なので。
やはり軌跡だけだとわかりにくいので、色を付けます♪
日隈城【10】
【10】南に下る道 上に戻る

最初に上がって来た6の所から、南側に下る別の道があります。
これも往時からあった道っぽい感じ。
見に行かねば!
四阿のある所の脇を通っています。
上からバッチリ狙えるので、防御は万全!
日隈城【11】
【11】南側の橋に出るようです 上に戻る

踊り場的な所を経て川に続いています。
左右から敵が来ないなら、水の確保に良さげです^^
船があれば、非常時に脱出も出来そうです。
日隈城【12】
【12】2段目の帯曲輪 上に戻る

四阿のある所に戻ると、北に延びる道があります。
神社からは2つ下の段になります。
城内の道にしては広い気もしますが・・・
建物建てても邪魔になりそうです^^;
日隈城【13】
【13】大手門の上 上に戻る

そのまま真っすぐ進むと、開けた場所に出ました。
セメントの道はそのまま右奥へ続いています。
左に見えるのは大手門跡の枡形です。
ここは大手門を守るための曲輪だったようです。
日隈城【14】
【14】大手門跡 上に戻る

そして、ここで唯一見られるバッチリ遺構です。
幅の広い枡形虎口です。
奥がちょっとアレですが、ほぼ残っています。
城の前は開けていたのに、ココはだいぶ奥まった所です。
主郭に至る道も、行ったり来たりで真っすぐではありません。
こういう所が城跡らしいですネ♪
日隈城【15】
【15】大手門跡の石碑 上に戻る

そして、大手門跡の外側にコレがあります。
金文字カッケーヾ(*´∀`*)ノ
日隈城【16】
【16】大手門跡の外側 上に戻る

大手門跡の外側です。
この道は駐車場の前まで続いています。
縄張図では外側にカラボリがあるので、一応城内です。
描かれている土手は、この道の右側の段差と思われます。
この光景から往時を偲ぶのは、ちょっと難易度高いかもです。


◆歴史◆

1594年、宮城豊盛により築かれました

宮城豊盛は豊臣家臣です。
九州征伐の前年、黒田孝高とともに九州へ出張。
大友宗麟や立花統虎に対し島津軍に備えるよう伝えています。
その後、大友義統が改易。
旧大友領は豊臣家の蔵入地となりました。
宮城豊盛は日田の代官に就任。
この時に日隈城を築きました。

1596年、毛利高政が改修しました。

毛利高政が日田郡・玖珠郡に2万石を与えられました。
また、蔵入地も預けられ、その代官となりました。
毛利高政は角牟礼城も改修し、そちらに入っています。

1600年、黒田軍に攻められました。

関ヶ原の戦で、毛利高政は西軍につきました。
大坂城の警護や田辺城(舞鶴城)攻めなどに加わっています。
一方、九州では黒田孝高が西軍の諸城を攻略。
日田郡には栗山利安を攻めさせました。
城代の毛利隼人佐は説得に応じ無血開城。
そのため、上方に居た毛利高政も東軍に降りました。
戦後、毛利高政は日田郡・玖珠郡の領地を没収されています。

1639年、廃城となりました。

毛利高政は佐伯2万石を与えられて移りました。
日田郡・玖珠郡は天領となり、毛利家が代官となりました。
毛利隼人佐がその代官を務めています。
この時、小川祐忠に日田郡の2万石が与えられました。
日隈城には毛利家の代官が居たため、月隈城を築きました。
しばらくは、日隈城と月隈城が日田に併存します。
1633年に月隈城(永山城)の石川忠総が佐倉7万石に移封。
※月隈城は石川忠総が城主となった1616年に永山城と改称
永山城が中津藩の預かりとなります。
そして1639年、日田が天領となり、日田代官所が設置されました。
この時に日隈城、永山城ともに廃城となりました。


所在地:大分県日田市庄手 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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