2023/01/28
財津古城/大分県日田市
財津古城は、古い形式の山城です。
訪問日は2022年12月29日です。
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財津古城は、某大聖典では藤山城、財津城と表記されます。
古城というので新城があるかと思いましたが、それは無いようです。
川の合流地付近の尾根先端に、大きな曲輪が連なっています。
堀や土塁、虎口等は明確でなく、古い形式の城跡です。
登り口さえ見つければ、迷わず城跡に辿り着けます。
GPSの軌跡だけではわかりづらいので、平坦面を塗ってみました。
とにかく広い曲輪が段々に連なっています。 |
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【1】城跡への入口 上に戻る
城跡への入口です。
住宅街の細い路地にあります。
川沿いの山なのですぐに見つかりますが。
この「登って下さい!」的な石段を登ります。 |
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【2】入口にある神社 上に戻る
石段からは神社に登る道が見えます。
城跡は山の上なので、ここで標高を稼ぎます。 |
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【3】最初の平坦地 上に戻る
神社から先は、明確な道ではありません。
それでも直感で辿れます。
すぐの所に、最初の平坦地があります。
これが曲輪なのか、そうでないのか。
城キチ的には曲輪かな?と思っています。 |
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【4】一番下の段 上に戻る
踏み跡を辿り登ると、再び平坦地に出ます。
今度はさっきとは雰囲気が違います。
辿り着いて平坦地のすぐ奥に段差が見えます。
畑と言われればそうかもしれませんが・・・
一応世間的には城跡と認識されています^^ |
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【5】並べられた石 上に戻る
とは言え、石が並んでるとつい撮ってしまいます。
デジカメなので、フィルムの残り気にしなくてもイイですし。
・・・っと、歳バレネタですね^^;
今でも「学生さんですか?」と言われますけどねw |
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【6】曲輪 上に戻る
今いる曲輪の奥に、横一線に広がる段差。
全般的にはこんな光景が広がります。
古い時代の城跡の特徴ですね。 |
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【7】細かい段差 上に戻る
ただ、西側の端はよそと少し様子が違います。
細かい段差が尾根のように張り出しています。
奥に行くほど段差が高くなるので、ここから登ります。 |
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【8】石垣 上に戻る
石垣といっても、多分畑のです。
端が崩れないようにしたのでしょうか。
城跡でもそういう所はありますが。
でも、それ相応に攻めにくい構造もあったりするものです。
ここでは、そういった類の遺構は見られません。 |
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【9】段差に埋もれる石垣 上に戻る
ただ、悲しいかな、本能には逆らえず。
ここの積み方はまさに農家様デス。
それでも、その場ではハッピーな気分なのでイイんです^^; |
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【10】一番奥の段差 上に戻る
西の端を登り、一番高い段を見上げた所です。
登れば登れますが、登りにくいです。
上から邪魔されれば猶更ですよね^^
そんな攻防があったのか無かったのか。
構造が単純な城跡でも、つい想像してしまいます。 |
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【11】一番上の曲輪 上に戻る
そして一番上です。
ここも広いです^^ |
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【12】土塁? 上に戻る
西側の端です。
何となく端だけ盛り上がって見えます。
これって土塁の痕跡でしょうか。
畑ではこんな風にはなりませんよね? |
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【13】段差 上に戻る
北へ進むと、曲輪がくびれています。
ここから下の曲輪との段差を撮りました。
くびれている所では、足元に石積みが見られます。
積み方は、バッチリ農家さんです。 |
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【14】つい反応 上に戻る
そうだとわかっていても、つい撮ってしまいます。
城で携わっていた人が、自分の畑で積んだかもなので。
妄想の世界では何でもアリです。 |
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【15】北側の尾根 上に戻る
一番上の段を北へ。
すると段差があり、尾根が奥へ続いています。
確かに等高線は尾根なのですが・・・
こうして見ると、土塁に見えてきます。
土塁だとしたら曲輪は右側?
左もそこそこ平らではありますが。 |
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【16】北東先端 上に戻る
一番上の段の北端です。
向こう側も寄ってきて、幅がだんだん狭くなっています。
ということで、北東の先端は尖がっています。 |
◆歴史◆
築城年代は不明です。
日田八奉行の財津氏の城でした。
財津氏は日田郡司・日田氏の一族です。
日田氏は1490年代に家督争いで滅びました。
そのため大友家出身の養子が継ぎ、日田郡司となります。
財津氏も郡老として、大友系日田氏を支えました。
郡老は後に2氏を加え、日田八奉行と呼ばれるようになります。
1523年、大友義鑑に攻められました
大友義鑑が、堤氏と高瀬氏に財津永満討伐を命じました。
これは讒言を信じたためとされます。
両氏が財津氏を攻めますが、作戦当日は大雨でした。
そのため堤軍が単独行動をとり、財津軍の待ち伏せで惨敗。
財津軍は堤弾正を討ち取りました。
大友義鑑は再度、高瀬越後守に財津氏討伐を命令。
財津軍は敗れ、財津永満は山口へ逃れています。
1534年、財津永満が復帰します
大友義鑑の赦しを受け、財津永満が復帰しました。
日田親将が大友義鑑に逆らった件が関係しそうですが・・・
大友義鑑の弟・菊池義武が反大友になったのもこの年です。
日田郡老達が菊池氏寄りになるのを牽制するためでしょうか。
理由はよくわかりませんが、財津氏が復帰しました。
1593年、大友家改易により領地を失います
朝鮮での失態により、大友義統が改易されました。
これにより、多くの大友家臣が領地を失っています。
財津氏もこれに含まれ、流浪の身となります。
財津永高は肥後細川家に仕え、家名を保っています。
所在地:大分県日田市花月 GPS軌跡ダウンロードページ
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