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財津古城/大分県日田市

財津古城は、古い形式の山城です。
訪問日は2022年12月29日です。

財津古城【位置】
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財津古城は、某大聖典では藤山城、財津城と表記されます。
古城というので新城があるかと思いましたが、それは無いようです。
川の合流地付近の尾根先端に、大きな曲輪が連なっています。
堀や土塁、虎口等は明確でなく、古い形式の城跡です。
登り口さえ見つければ、迷わず城跡に辿り着けます。
GPSの軌跡だけではわかりづらいので、平坦面を塗ってみました。
とにかく広い曲輪が段々に連なっています。
財津古城【1】
【1】城跡への入口 上に戻る

城跡への入口です。
住宅街の細い路地にあります。
川沿いの山なのですぐに見つかりますが。
この「登って下さい!」的な石段を登ります。
財津古城【2】
【2】入口にある神社 上に戻る

石段からは神社に登る道が見えます。
城跡は山の上なので、ここで標高を稼ぎます。
財津古城【3】
【3】最初の平坦地 上に戻る

神社から先は、明確な道ではありません。
それでも直感で辿れます。
すぐの所に、最初の平坦地があります。
これが曲輪なのか、そうでないのか。
城キチ的には曲輪かな?と思っています。
財津古城【4】
【4】一番下の段 上に戻る

踏み跡を辿り登ると、再び平坦地に出ます。
今度はさっきとは雰囲気が違います。
辿り着いて平坦地のすぐ奥に段差が見えます。
畑と言われればそうかもしれませんが・・・
一応世間的には城跡と認識されています^^
財津古城【5】
【5】並べられた石 上に戻る

とは言え、石が並んでるとつい撮ってしまいます。
デジカメなので、フィルムの残り気にしなくてもイイですし。
・・・っと、歳バレネタですね^^;
今でも「学生さんですか?」と言われますけどねw
財津古城【6】
【6】曲輪 上に戻る

今いる曲輪の奥に、横一線に広がる段差。
全般的にはこんな光景が広がります。
古い時代の城跡の特徴ですね。
財津古城【7】
【7】細かい段差 上に戻る

ただ、西側の端はよそと少し様子が違います。
細かい段差が尾根のように張り出しています。
奥に行くほど段差が高くなるので、ここから登ります。
財津古城【8】
【8】石垣 上に戻る

石垣といっても、多分畑のです。
端が崩れないようにしたのでしょうか。
城跡でもそういう所はありますが。
でも、それ相応に攻めにくい構造もあったりするものです。
ここでは、そういった類の遺構は見られません。
財津古城【9】
【9】段差に埋もれる石垣 上に戻る

ただ、悲しいかな、本能には逆らえず。
ここの積み方はまさに農家様デス。
それでも、その場ではハッピーな気分なのでイイんです^^;
財津古城【10】
【10】一番奥の段差 上に戻る

西の端を登り、一番高い段を見上げた所です。
登れば登れますが、登りにくいです。
上から邪魔されれば猶更ですよね^^
そんな攻防があったのか無かったのか。
構造が単純な城跡でも、つい想像してしまいます。
財津古城【11】
【11】一番上の曲輪 上に戻る

そして一番上です。
ここも広いです^^
財津古城【12】
【12】土塁? 上に戻る

西側の端です。
何となく端だけ盛り上がって見えます。
これって土塁の痕跡でしょうか。
畑ではこんな風にはなりませんよね?
財津古城【13】
【13】段差 上に戻る

北へ進むと、曲輪がくびれています。
ここから下の曲輪との段差を撮りました。
くびれている所では、足元に石積みが見られます。
積み方は、バッチリ農家さんです。
財津古城【14】
【14】つい反応 上に戻る

そうだとわかっていても、つい撮ってしまいます。
城で携わっていた人が、自分の畑で積んだかもなので。
妄想の世界では何でもアリです。
財津古城【15】
【15】北側の尾根 上に戻る

一番上の段を北へ。
すると段差があり、尾根が奥へ続いています。
確かに等高線は尾根なのですが・・・
こうして見ると、土塁に見えてきます。
土塁だとしたら曲輪は右側?
左もそこそこ平らではありますが。
財津古城【16】
【16】北東先端 上に戻る

一番上の段の北端です。
向こう側も寄ってきて、幅がだんだん狭くなっています。
ということで、北東の先端は尖がっています。


◆歴史◆

築城年代は不明です。
日田八奉行の財津氏の城でした。
財津氏は日田郡司・日田氏の一族です。
日田氏は1490年代に家督争いで滅びました。
そのため大友家出身の養子が継ぎ、日田郡司となります。
財津氏も郡老として、大友系日田氏を支えました。
郡老は後に2氏を加え、日田八奉行と呼ばれるようになります。

1523年、大友義鑑に攻められました

大友義鑑が、堤氏と高瀬氏に財津永満討伐を命じました。
これは讒言を信じたためとされます。
両氏が財津氏を攻めますが、作戦当日は大雨でした。
そのため堤軍が単独行動をとり、財津軍の待ち伏せで惨敗。
財津軍は堤弾正を討ち取りました。
大友義鑑は再度、高瀬越後守に財津氏討伐を命令。
財津軍は敗れ、財津永満は山口へ逃れています。

1534年、財津永満が復帰します

大友義鑑の赦しを受け、財津永満が復帰しました。
日田親将が大友義鑑に逆らった件が関係しそうですが・・・
大友義鑑の弟・菊池義武が反大友になったのもこの年です。
日田郡老達が菊池氏寄りになるのを牽制するためでしょうか。
理由はよくわかりませんが、財津氏が復帰しました。

1593年、大友家改易により領地を失います

朝鮮での失態により、大友義統が改易されました。
これにより、多くの大友家臣が領地を失っています。
財津氏もこれに含まれ、流浪の身となります。
財津永高は肥後細川家に仕え、家名を保っています。


所在地:大分県日田市花月 GPS軌跡ダウンロードページ
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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