fc2ブログ

岩石城/福岡県添田町

岩石城は、15年ぶりの再訪問です。
訪問日は2022年12月30日です。

岩石城【全体】
別ウィンドウで表示

岩石城は、2007年以来の訪問となります。
ヒヨッコだった当時は、模擬天守だけ見て帰りました。
しかし後年、本格的な山城だったと知りました。
いつか訪ねてやろうと心に誓うこと数年。
大分シリーズで時間に余裕が出来、立ち寄りました。
登山口は添田神社隣のそえだジョイ脇にあります。
私は久しぶりに模擬天守を見たくて、美術館前から登りました。
登山道はよく整備され、奥の院へと通じます。
ここからが城域で、各所に曲輪が配置されています。
曲輪の名称は、某大御所様のイラストの番号を採用。
日没が迫っていたため、奥の方は回り切れていません。

写真へジャンプ
1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24
岩石城【登城口周辺】
【登山口周辺】 上に戻る

登山口はそえだジョイ脇にあります。
少し登った所に展望台があり、舗装道から合流も可能です。
ただ、展望台周辺には駐車場がありません。
模擬天守から舗装道を歩き、展望台付近で登山道へ入ります。
私が訪ねた時は、美術館から先は通行止めでした。
登山道はよく整備され、とても歩きやすくなっています。
岩石城【1】
【1】そえだジョイ 上に戻る

登山口の目印になるそえだジョイです。
城郭風のちょっとイタイ感じの建物です。
添田公園内に聳え、よい目印にはなっています。
岩石城【2】
【2】登山口 上に戻る

その左脇が、岩石山への登山口です。
周りに駐車場は無く、私は通り過ぎましたが・・・
この奥に駐車場があります。
岩石城【3】
【3】添田美術館 上に戻る

12年ぶりの御対面となる模擬天守です。
前回は門が固く閉ざされ、外から見ました。
気になり調べたら年中無休らしいのですが・・・
今回も門は固く閉ざされていました。
クリスマス頃の積雪のためと貼られていました。
滋賀の水口城や岐阜の神岡城も、私が行くと必ず閉まっています。
嗚呼ココもかいと、何とかリストに追加するのでした。
ということで、12年前と同じく門の右脇の段差上から撮影。
正面から御尊顔を拝む日は果たして来るのか?
岩石城【4】
【4】登山道 上に戻る

模擬天守の先からも、岩石山に登ることが出来ます。
舗装道をそのまま進み、展望台付近で登山道に合流します。
訪問当日は、土砂崩れのため通行止めでした。
ただの通行止めでなく立入禁止だったので、そこから山道へ。
山中をショートカットして展望台の先に出ました。
そこから展望台方向へ少し下り、登山道に合流しています。
登山道は写真の通りとてもよく手が入っています。
ストレートになると、視界の限り私の苦手な階段が続きます。
それで少しハートがヤラレちゃったのは内緒です。
岩石城【城域】
【城域】 上に戻る

岩石城の城域は、奥の院から先です。
多くの曲輪が、左右に配置されています。
豊臣軍に攻められた時には3000人で立て籠もっています。
それだけの規模の山城だったということです。
日没が迫っていたので、東側の下段は見られず。
きっと数年したら再訪問するかと思います。
岩石城【5】
【5】奥の院鳥居 上に戻る

美術館前から40分程で、奥の院に着きました。
現地では「奥の院」とだけ書かれています。
ただ、麓には沢山神社があります。
どの神社の「奥の院」なのだろうかと気になりました。
鳥居には白山宮と書かれています。
岩石城【6】
【6】奥の院 上に戻る

成り立ちを考えれば、添田神社のものだろうと思っていました。
添田神社は、岩石城築城の際に麓に建てられました。
古来、岩石山山頂には天忍穂耳命が祀られていたそうです。
私は城キチなので、これ以上は深入りシマセン^^
岩石城の城域は、ここから始まります。
岩石城【7】
【7】二重堀切 上に戻る

奥の院の先で、道が3つに分かれます。
まずは右から。
こちら側には二重の堀切があります。
写真は見つけた時の視点で撮りましたが見えますか?
手前が浅く、奥の方が随分と深いです。
岩石城【8】
【8】深い方の堀切 上に戻る

浅い方もの撮りましたが、写真ではよくわからず。
深い方はもっとハッキリ見えたのですが・・・
写真だとこんな風にしか写らず。
岩石城【9】
【9】6郭下の竪堀(手前側) 上に戻る

今度は反対側の6郭をめざします。
とは言え、明確に案内がある訳ではありません。
目印になるのは、6郭直下の2本の竪堀。
道の左側にこんな竪堀があります。
岩石城【10】
【10】6郭下の竪堀(奥側) 上に戻る

その2、3メートル先にもこんな竪堀が。
この2本の竪堀を見たら、右側の高みに直登です。
岩石城【11】
【11】6郭 上に戻る

登って正解。
上には平坦地が待っていました。
道や土塁などもなく、ただ平らな場所です。
もしかしたら、見つけてほしくない場所なのかもしれません。
岩石城【12】
【12】柱穴の目印 上に戻る

奥の院へ戻り、今度は直進です。
すると、今度はこれが現れます。
某大御所様のイラストにも描かれています。
ただ、その足元には何もありません。
岩石城【13】
【13】柱穴 上に戻る

そこら辺に無いかな~?と探すと見つかります。
この先にあるのは、本丸直下の5郭です。
ここが防ぎ所とばかりに、色々建てたのでしょう。
どんなものが建っていたのか、想像する他ありませんが。
岩石城【14】
【14】4郭前の堀切 上に戻る

それよりも私の眼を惹いたモノがあります。
それが、登山道右側に横たわる堀切です。
登山道側からは、切り通しに見えます。
断ち切っているのは、どうやら右側の尾根のようです。
登山道からすんなり入れるので先にそちらへ。
岩石城【15】
【15】4郭 上に戻る

堀切の右側に登った所が4郭です。
岩石交じりの尾根先端が削平されています。
先程の柱穴エリアで迎撃するための兵溜まりでしょうか。
岩石城【16】
【16】5郭 上に戻る

柱穴エリアに戻りその先へ。
坂を登った先に、そこそこ広い平坦地があります。
奥に1メートルほどの段差があります。
岩石城【17】
【17】本丸の虎口 上に戻る

5郭から上がる道があります。
その先に見える明るい空間。
山頂まで間近なようです。
土の壁を縫うこの道は、本丸の虎口です。
岩石城【18】
【18】本丸 上に戻る

そして本丸です。
城内で一番広い曲輪、だと思います。
行けてない所があるので暫定デス。
所々に大きめの石が散らかっています。
多分ですが、石垣があったのではないかと思います。
岩石城【19】
【19】山頂にある展望台 上に戻る

そして、更に高い所へ通じる道が。
その先にあるのが展望台です。
某大御所様は天守台と書かれています。
ココに聳える現代の天守がコレです^^
デザインは、もうちょっと凝った方が良かったかも^^;
白亜じゃなかっただけ良かったかもですが。
岩石城【20】
【20】馬場 上に戻る

天主台の奥へ進むと、さらに道があります。
その道を進むと一直線に。
馬場っぽいなぁと思っていたら、やっぱり馬場でした。
お馬さん達、ここまで登らされたんですね。
ご愁傷様です。
岩石城【21】
【21】国見岩 上に戻る

馬場の先の開けた場所に、とても目立つ巨岩があります。
ここにあるのが国見岩です。
何とかの一つ覚えでとびつきますが、テッペンまでは登れず。
こんなの趣味じゃないと、捨て台詞を吐きますw
近くには梵字岩や天狗岩もあります。
この山自体が彦山修験道場の途中らしく・・・
修験者じゃなくて良かったデス。
岩石城【22】
【22】空から 上に戻る

ここでようやく空を飛びました。
展望台にはヒトが居ましたので^^;
左下手前が国見岩で、右上奥が山頂です。
登って来たのは、左上奥からです。
こうして見ると、山頂付近は傾斜が緩やかです。
岩石城【23】
【23】2郭にある石垣 上に戻る

帰りは、登って来たのとは別の所から下りました。
山頂からそっち側への道端に立入禁止とあります。
最初はこっち側通れないんかいと思いました。
よくよく見ると、その足元が立入禁止でした。
どうやら超ヤバイきのこがあるようです。
命に関わる程ヤバイ代物なので、興味本位で見ないようにして下さい。
さて、その先にある平坦地が2郭です。
古井戸の案内が盛んに現れる曲輪です。
でも私は井戸には興味ゼロ。
白い服着た人が出るからではありませんyo。
それよりも私の眼を惹いたのがコチラ。
崩れかけの石垣です。
あるとは知っていたものの、ようやく巡り遭えました^^
岩石城【24】
【24】3郭前の堀切 上に戻る

馬場下の曲輪には行けなかったのでせめて3郭だけでも!
・・・とは思っていましたが、2郭の先はこんな感じです。
せめてあと30分余裕があれば下りていました。
眼下には、かなり深い堀切が横たわっています。
その先にあるのが3郭です。
こういう終わり方だと、私また来ちゃうかもしれません。


◆歴史◆

1158年、大庭景親により築かれたとされます

平清盛と源義朝が武家の棟梁の座を争っていた時期です。
1156年の保元の乱で、平清盛は源氏勢力の分断に成功。
相模では、源氏との関係から三浦氏や中村氏が劣勢となります。
大庭景親が岩石城を築いたのはそんな時代です。
築城の労役を負担することで、平家に接近したのかもしれません。
城を築いたものの、大庭氏の城とはならなかったようです。
1159年の平治の乱で、平清盛はその地位を不動のものとします。
1180年の石橋山の戦では、平家方として源頼朝を撃破します。
しかしその後、富士川の戦で敗れ降伏。
上総広常に預けられた後、処刑されました。
弟の大庭景義は早くから源頼朝に従っていました。
そのため、大庭景義が領地を継いでいます。

大友氏と大内氏が争奪戦を繰り返します

1221年の承久の乱後、岩石城は大友家の城となります。
南北朝時代には、南朝方の菊池軍に攻められたりもします。
そんな南朝方に対抗するため、九州に赴任したのが今川了俊です。
大友親世ははじめ、今川了俊に協力しました。
しかし、今川了俊は九州に領地がありませんでした。
そのため、大宰府のある筑後国守護の少弐氏と対立。
和解しようと招いた陣で、少弐冬資を殺してしまいました。
少弐冬資に出陣を促した島津氏や大友氏は面目丸つぶれ。
南朝軍との決戦を前に、両者とも帰国しています。
そんな事があってかどうかは?ですが・・・
今川了俊の次に豊前守護になったのは大内氏でした。
大内氏は本格的に北部九州への侵攻を開始。
この頃に岩石城主になったのが、大庭景忠です。
大庭景忠は、城を築いた大庭景親の弟の子孫です。
鎌倉時代に備後国新庄本郷の地頭になった一族がいます。
その末裔が大内家に仕えていたようです。
以後5代にわたり、岩石城の城主を務めています。
戦国時代には、大友家の持ち城になっていました。

1585年、秋月種実の城となります

耳川の戦で大敗後、大友家の勢力が衰退。
秋月種実は大友家領へ侵攻し、勢力を拡大しました。
岩石城もこの時に攻略し、豊前国での足掛かりとしています。

1587年、豊臣軍に攻め落とされました

秋月種実は島津義久に従い、豊臣軍に抵抗しました。
豊臣軍は堅城の岩石城は見張るだけでスルーする予定でした。
しかし、岩石城の見張役である蒲生氏郷や前田利長が攻城を主張。
豊臣秀吉が折れて、城攻めが実行されました。
豊後一の堅城と言われた岩石城ですが、たった1日で落城。
守備兵3000人の内400人が討死するという、激戦だったと伝わります。
岩石城が1日で落城した報せに、秋月種実は戦略の変更を迫られます。
秋月種実は益富城の兵を古処山城に集め、守りを固めました。
しかし、翌日には破却したはずの益富城が復活。
これは豊臣軍お得意の張りぼて一夜城でした。
そうとは知らず、秋月種実は戦意喪失。
茶器と名東、さらに娘を差し出して、豊臣秀吉に降伏しました。

1616年、一国一城令により廃城となりました

九州征伐後、小倉城主・毛利高政の持ち城となりました。
岩石城には毛利高頼が配置されました。
関ヶ原の戦後は、細川忠興の支配地域となりました。
1602年、長岡忠尚が京都郡・上毛郡の郡代となっています。
しかし1606年、長岡忠尚は父・飯河宗祐ともども成敗されます。
成敗の理由は明らかではありません。
長岡姓なので関係を調べていたら出て来ました^^;
ちなみに飯河宗祐の母親が、細川忠興の母親と姉妹です。
城は、1616年の一国一城令により廃城となりました。


所在地:福岡県田川郡添田町添田 GPS軌跡ダウンロードページ
福岡県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR