2023/01/03
奥畑鞍懸城/大分県豊後高田市
奥畑鞍懸城は、古い方の鞍懸城です。
訪問日は2022年12月31日です。
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史料に登場する「鞍懸城」には2つあります。
同時代に併存しなかったためと考えられます。
現代では両者を区別するため、地区名を頭に付けて呼びます。
1つは総石垣の佐野鞍懸城です。
同じ大字(佐野)にあり、奥畑の北側に位置します。
道は無いものの比高が低く、多くの城キチが訪ねています。
こちらは奥畑の鞍懸城です。
山キチさん達は山頂までは来ますが、城跡には来ません。
山頂から城跡側は、登山ルートじゃないからですね。
ということで、訪ねる前には何も見つけられませんでした。
帰って来てから出て来る辺り、検索力がちょっと残念デスT_T
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【1】林道終点 上に戻る
登城口は、西側を南北に走る林道の終点です。
ナビにこの道が表示されるので、楽に来れます。
舗装道はココまでで、この先は車では走れません。
ということで、ココに車を置いて歩きました。
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【2】段々の石垣 上に戻る
山道の左脇には、石垣の段々が続きます。
城とは関係無さそうだとは思いつつ、つい撮ってしまいます。
だって、長岩城の砲座と似てるんですもの^^
99.9%違うだろうと思いつつ、残り0.1%に賭けてしまいます。
ギャンブルはしませんが、根は同じという事です。
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【3】分岐付近 上に戻る
山道から山へ、途中で分岐します。
とは言っても、山側に明確な道はありません。
こんな感じになったら山側へ移ると思って下さい。
最終的に山道は、崩れて正面が塞がっています。
そこから左側へ移っても遅くありません。
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【4】石段 上に戻る
沢の向こう岸は、沢山の石段があります。
畑の跡かもしれませんが、それにしては数が多いです。
石の積み方が農家さんぽいので多分畑跡ですが。
ここいらは奥へ進む道が見えません。
とりあえず東へ、歩きやすい所を進みます。
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【5】倒竹エリア 上に戻る
畑跡の石垣エリアの端がココです。
私がどうしようかと頭を抱えた場所です。
どう進めば良いのか、全く見当がつきませんでした。
倒竹だけでも面倒くさいのに、緑の葉っぱにはトゲがあります。
行きは、トゲトゲの蔓を避けながら苦労して登りました。
帰りは、南側に踏み跡がありました。
そこはトゲトゲは無く、かなり楽に通れました。
下からだと、この右端を歩く感じになります。
歩きやすい所に目印を付けておきました。 |
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【6】稜線 上に戻る
倒竹エリアを過ぎると、針葉樹林帯の斜面直登です。
明確な道は無く、登りやすい所を登ります。
目印があったので辿りました。
そうこうしてようやく稜線まで辿り着きました。
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【動画】 上に戻る
ここから先は、こっちの方が紹介は手っ取り早いです。
まぁでも、ギガの問題もあると思うのでつづきを書きます^^
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【7】鞍懸山の山頂 上に戻る
6からは、礫岩のピークが続きます。
3つ目のピークが、鞍懸山の山頂です。
国土地理院の地図だと、山頂はもっと北なのですが・・・
山キチさん達が来るのはココまでです。
今の所、城跡らしさゼロです。
空撮動画の人も「何も無い」と書いていました。
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【8】城跡のあるピーク 上に戻る
でも、こういう体験は何度もしています。
古処山城の山頂だって、何もありませんでしたし。
そんな経験を積んでいるので、こっちが怪しいとピンと来ました。
今まで呑んだ涙の数々は、ちゃんと糧になっていました^^
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【9】堀切 上に戻る
礫岩の稜線を進むと、木々の生えた場所に出ます。
すると間もなく、足元が異様に低い場所があります。
下りるまでもなく、城キチセンサーが反応。
堀切様でしたヾ(*´∀`*)ノ
城キチの勘は、見事的中しました。
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【10】城跡 上に戻る
堀切のすぐ先には、大きな平坦地があります。
こんな山の上に!と思う程の広さです。
誰がどう見たって、人の手が入っています。
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【11】虎口 上に戻る
時計回りに外周を進むと、間もなく窪みがあります。
ただの窪みではなく、人が通るような感じに見えます。
下に道も見えるので、虎口のようです。
今思えば下も見て来れば良かったと思うのですが・・・
疲れていてそんな気が起きませんでした。
この時は白なぽが黒なぽに勝っていたんですねw
そう思いながらネットを漁っていたら出て来ました。
物臭で下りなかった虎口の下に、堀切があったようです。
ううう(T_T)
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【12】切岸 上に戻る
平坦地の北側が尾根になっています。
その尾根が、こんな切岸でブッた斬られています。
これも明らかに人為的なものです。
こちら側からも登って来れるという事でしょうか?
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【13】先端部 上に戻る
切岸は3段あり、その先も尾根が続いています。
一番下の切岸は高低差があり、下りませんでした。
ここでも面倒臭がりが出てしまいました。
なんで下りなかったんだよぉーなんて思いますが・・・
きっと疲れていたんでしょうね^^;
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◆歴史◆
南北朝時代に築かれたとされます。
元々は山岳仏教の神宮寺があったようです。
そんなこの地を古荘氏が押領しています。
城を築いたのが誰なのかは?ですが・・・
1369年、鞍懸城に籠る宮方を、田原直貞が攻めています。
田原直貞は1333年、鎮西探題・北条英時を攻めた人物です。
兄が田染荘で悪党化したため、田原家の惣領となりました。
南北朝時代は足利尊氏に味方し、子の田原貞広が飯塚城に移りました。
1374年には、南の華岳に籠る宮方を田原氏能が攻めています。
田原氏能は、田原貞広の子です。
九州探題・今川了俊と協力して南朝方を攻撃。
菊池武光を倒し、主家の大友家を凌ぐ勢力を築き上げています。
所在地:大分県豊後高田市佐野 GPS軌跡ダウンロードページ
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