2013/09/29
雉ヶ岡城/埼玉県児玉町
雉ヶ岡城跡は公園になっています。訪問日は2012年5月19日です。

▲縄張図(拡大)
公園に入ってすぐの所に説明板と縄張図があります。せっかくなので撮りました。かつての縄張りと現在の地図が重ねられており、どれだけ破壊されたのか一目瞭然です。この図によると、今残っているのは南郭と2郭の一部ですね。

▲南郭
公園の入口は堀を渡り、切れた土塁の間を通ります。その土塁に囲まれているのが南郭です。写真の場所は土が盛られており、物見台的な感じです。

▲土塁
南郭は周囲を見事な土塁で囲まれています。かつてはもっと高く、傾斜もきつかったと思われます。

▲空堀
そして、南郭と2郭の間には、大きな空堀も

◆歴史◆(妄想だらけ)
山内上杉家臣・有田定基により築かれたとされます。主家の居城とすべく築いたのですが、手狭なため、主は上野国・平井城に移ったのだとか。色んなサイトでこんな風に紹介されているのですが、十分広いような気が・・・・
ただ、その時期がよくわかっていません。そこでいつ、どういった事が考えられるんだろうと色々調べましたがサッパリ┐(´∀`)┌
わからないからこそ、ということで妄想爆発ですw
山内上杉氏は関東管領なので、元々は鎌倉に居を構えていました。上野、伊豆の守護職も兼ねており、戦乱を避けるため領国に移ったと思われます。・・・という仮定をすると、その時期は1437年なのかな?思います。この時期から鎌倉公方と関東管領の間に数十年にわたる泥沼が始まります。
鎌倉公方・足利持氏は事あるごとに諌める山内上杉憲実をとても煙たがっていました。この辺の経緯は長くなるので省きますw憲実は幕府と鎌倉公方の仲を取り持とうと懸命に奔走していたのですが・・・
1437年、足利持氏が山内上杉憲実を討つのではないか、という噂が広がりました。このため、憲実は嫡男・憲忠を領国である上野へ逃がし、自らは関東管領を辞任しています。
自らの所領に居城を築くならこんな時期かと思います。上野国・平井城が築かれたのも丁度この頃です。雉ヶ岡城を築いた有田定基(のち夏目に改姓)が城主となりますが・・・
夏目氏が城主だったのは2代だけ。雉ヶ岡城が後北条氏により落とされたのは1546~57年の間と思われます。あり得なくは無いのですが、2代で100年ちょいは長過ぎるような気がします。
他のサイトでは寛正年間(1460~66年の間)じゃないか?とも書かれていました。その頃の状況は・・・
1455年、鎌倉公方・足利成氏が上杉憲忠を謀殺。鎌倉は幕府軍に占領され、成氏は古河に移る。
1466年、五十子陣にて上杉房顕が病没。享年32。
古河に移った足利氏と上杉氏による五十子陣での対陣は、最終的に20年以上にも及びました。上杉房顕が没したのは開戦から10年程経った頃でしょう。いくら若くても常に戦のストレスに晒され続けて体調を崩したのですね。・・・となると、平井城よりも近い雉ヶ岡に新たな居城を築く理由にはなると思います。
他に考えられる時期は・・・
1478年、長尾景春の乱後、山内上杉顕定は鉢形城を居城としました。
1512年、上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍勢に包囲され、鉢形城が落城。
山内上杉顕定は鉢形城を居城としていました。家督を継いだ上杉顕実も鉢形城を居城としましたが、上杉憲房の居城は平井城でした。
年代的には丁度よさげなのですが・・・居城を移す理由がありませんね。無理やりこじつけるならば、平井城から鉢形城へ攻める拠点にはなります。苦しいですねw
それから後も詳しくはわかりませんが・・・
1546年、河越夜戦で後北条が大勝利を収め、扇谷上杉氏が滅びました。この時、勢いに乗った北条勢は更に北上し、松山城も攻め落としました。山内上杉憲政は平井城へ撤退しました。
ここから後北条氏による調略が活発化し・・・1557年には周辺の家臣達はすっかり後北条氏に寝返っていました。さらに馬廻衆まで寝返っており、上杉憲政は平井城を追われました。
雉ヶ岡城が後北条氏の支配下に入ったのもこの時期と思われます。城主には横地忠春が就き、鉢形城の支城として機能しました。
1569年、武田信玄に攻められ落城。付近にある長泉寺には、この時武田軍が建てた札が残っているそうです。
1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされます。戦後、雉ヶ岡には松平清宗が1万石で城主となりました。
1601年、関ヶ原の戦いの後、跡を継いだ松平家清は豊橋3万石へ移されます。雉ヶ岡は徳川家直轄領となったため、雉ヶ岡城は廃城となりました。
所在地:埼玉県児玉郡児玉町八幡山
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