2022/11/20
猪崎城/京都府福知山市
猪崎城は、カタツムリみたいな形をしています。
訪問日は2022年8月2日です。
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猪崎城は、主要部を複数段の帯曲輪で囲まれています。
北東側に尾根が伸び、ココは段曲輪になっています。
グルグル巻きから出るひと筋の尾根。
略図を描くと、カタツムリそのものです。
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【1】北東の入口 上に戻る
猪崎城は、周りを急斜面で囲まれています。
その斜面ギリギリまで住宅街が迫っています。
そのため車を停めるとすれば、北東のココ一択です。
目の前に墓地があり、数台分の駐車スペースがあります。
そして、入口には城址碑と説明板が。
立派な縄張図も載っています。
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【2】北東の段曲輪 上に戻る
北東に伸びる段曲輪です。
城内への入口はココだけです。
しかし、斜面が削られ急角度に。
そう高くはないですが、簡単には登れません。
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【3】北東の段曲輪 上に戻る
段曲輪はキッチリ削平されています。
幅もかなりあり、段差もクッキリ。
押し寄せる敵をここで迎え撃つ感じです。
端に柵を設け、上からズドンです!
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【4】上から見た段曲輪 上に戻る
下から見ても段がハッキリでしたが、上から見てもです。
雑木林の中だと、段差が見えなかったりします。
綺麗に整備され、芝生だからこその景観です^^
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【5】段曲輪の裏 上に戻る
手前は綺麗に整備されていますが裏はこんなです。
いつも見てる感じでちょっと落ち着きます。
真夏ですが・・・
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【6】帯曲輪の外側 上に戻る
城の主要部は、グルグルと帯曲輪に囲まれています。
その一番外の下には、通路が通っています。
敵にはなるべく上がって欲しくないですからね。
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【7】外側 上に戻る
外周を見て回るとこんな所もあります。
切岸は鋭く、簡単には上がれない感じです。
どこから上がろうか?と思ってる内に上からヤラレそう。
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【8】帯曲輪にある祠跡 上に戻る
西側の帯曲輪に、崩れた石の祠があります。
三角形のは、どう見ても屋根ですよね?
アノ巨大地震で崩れそのままなのでしょうか。
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【9】帯曲輪 上に戻る
グルグルの帯曲輪は、所々で斜めに上がります。
こんな感じで少しずつ上がる所があります。
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【10】大手口? 上に戻る
1か所だけ、一気に上がれる所があります。
ただ、真っすぐではなくウネウネです。
こういう所が城跡らしいです^^
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【11】複雑な形 上に戻る
ここが何なのか?ですが・・・
帯曲輪を上がって横堀に入る所です。
平坦ではなく、すんなり進ませないという事でしょうか。
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【12】帯曲輪のヘアピンカーブ 上に戻る
帯曲輪はあちこちでこんな感じになっています。
寄せ手は走り回る内に方向感覚がズレそうです。
とは言え、ここに門を置きそうな感じに見えます。
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【13】横堀の始まり 上に戻る
10を登った所です。
下から見ても複雑な地形ですが、上もです。
横堀なのか帯曲輪なのか。
ここから見える土塁も底も、平坦ではありません。
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【14】横堀 上に戻る
時計回りに進むと、横堀っぽくなります。
上がる通路は後付けのように見えます。
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【15】変化のある横堀 上に戻る
ただ、他の城跡と違うのは変化が多いこと。
のっぺりと主郭を囲んではいません。
こんな感じで所々で虎口のような段差のような変化があります。
こっちから見ると、この先に虎口があるように見えそうです。
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【16】横堀と段曲輪 上に戻る
主郭から見た横堀と北東の段曲輪です。
グルグルと囲まれているので、上から見ると立体的です。
しかも、草木が刈られているのでよく見えます。
城キチ的には、とても立体感を感じられ嬉しい限りです♪
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【17】上から見た帯曲輪 上に戻る
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【18】上から見た横堀と帯曲輪 上に戻る
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【19】主郭 上に戻る
そして、一番高い所にある主郭です。
・・・広いですw
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【20】矢倉台 上に戻る
主郭の北西端が、一段高くなっています。
縄張図で「矢倉台」として描かれている所です。
東西南が断崖なので、やはり迎撃正面は北ですね!
ココに木で組んだ櫓があったのでしょうか。
そんな光景が目に浮かびます♪
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◆歴史◆
塩見氏の城でした
塩見氏は、戦国時代に丹波国天田郡を支配していました。
出自は不詳ですが、子孫には三階菱を家紋とする家が多くあります。
史料には、1500年代初期に突然現れます。
1490年に勃発した位田の乱で萩野氏が没落。
その後釜として移住したという説があります。
築城年代は不明です。
城の構造から、天文~永禄(1532-69)に築かれたと考えられています。
塩見氏は守護代の細川家臣・内藤氏に従っていました。
細川家臣も一筋縄では行きませんが・・・
内藤氏は松永久秀の弟・松永長頼を婿としていました。
内藤国貞の戦死後は、松永長頼の子が内藤家を継いでいます。
そのため、塩見氏は松永家と行動を共にしています。
1565年、松永長頼が赤井直正(荻野直正)との戦で戦死。
翌年には松永孫六が波多野元秀に八上城を奪われています。
塩見一族は以後、赤井氏に従うようになります。
1579年、塩見氏が没落しました
織田信長が足利義昭と袂を分かちました。
そのため、織田軍の明智光秀が丹波へ侵攻。
赤井氏をあっさり討伐しました。
(丹波の赤鬼・赤井直正は前年に病死していました)
その余勢を駆り、明智軍は天田郡にも侵攻。
明智軍は横山城など塩見一族の城を次々と陥落させました。
猪崎城主・塩見家利は自ら城を焼いて落ち延びます。
しかし、明智軍の追及は厳しく、大砂利という所で討ち取られます。
以後城が使用された形跡は無く、そのまま廃城になったものと思われます。
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