2022/10/22
八田城/京都府綾部市
八田城は、上杉弾正屋敷の近所にありました。
訪問日は2022年8月2日です。
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八田城は、歴史不明な山城です。
上杉氏発祥の地なので、上杉氏の城?と考えられています。
途中に水道施設があり、そこから少し登れば辿り着きます。
遺構は小さな堀切と、その上にある曲輪のみ。
古い形式のお城だったようです。 |
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【1】西側麓の道 上に戻る
上杉弾正屋敷跡から徒歩で向かいました。
南西のここら辺から登った先輩がいたのですが・・・
その道を見つけられませんでした。
とりあえず、山に入る道を探すことに。 |
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【2】西側麓の道 上に戻る
麓には山に沿ってこんな道があります。
しかし、山に入る気配は無く続きます。 |
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【3】登城口 上に戻る
やがて麓の水道施設に。
ここは多くの方が紹介する登城口です。
前の路肩が広く、クルマを停められます。 |
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【4】登城路 上に戻る
上の水道施設へ続く道です。
城キチなのでつい「登城路」と書きました^^;
整備された道ではありません。
このまま尾根を一直線に登ります。 |
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【5】水道施設 上に戻る
途中にある水道施設です。
整地されていますが、元々こんな地形だったのでしょう。
でなければ、こんな物をわざわざ山中には造りません。
妄想を重ねると、腰曲輪だったように思えてきます。 |
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【6】尾根 上に戻る
水道施設から先は道がありません。
とは言え、下草が無いのであまり変わりません。
真夏に訪ねましたが、小バエがおらず快適でした。 |
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【7】堀切 上に戻る
尾根を登ると、堀切が出迎えてくれます。
往時もここから登った証拠ですね! |
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【8】曲輪 上に戻る
堀切の上は、広い平らな空間です。
明らかに人の手が加わった削平地です。
とは言え、堀切は手前の1つだけで土塁も無し。
お城としては古い形式のようです。 |
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【9】奥の尾根 上に戻る
等高線付き地図ではまだ山の途中。
もっと上にも何かあるのでは?と奥へ進みました。
曲輪の奥には、少し下る尾根が続きます。 |
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【10】尾根に掘られた溝 上に戻る
尾根は間もなく登りに転じます。
しばらくすると溝が現れます。
水の流れにしては不自然で、人の手が加わっていそうです。
その場合、水を流す溝ではなく、歩くための道ということに。
ただ、そんな事しなくても歩きづらい場所ではありません。
ということは、迷子防止の目印でしょうか。
里人の避難所的な山で時々見られます。 |
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【11】次のピーク 上に戻る
尾根を進むと、次のピークが見えてきました。
予想通りというか、上が平らになっています。
ここにも人の手が加わっているようです。 |
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【12】人の手が加わったように見える尾根 上に戻る
平らで少し窪んだ尾根がさらに奥へと続きます。 |
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【13】小屋 上に戻る
今度はピークに小さな小屋が。
ちょっとした高まりなので祠っぽくもあります。
しかし、閉じており何も拝めず。
物置きなのか何なのか。
やっぱり祠でしょうか・・・? |
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【14】尾根 上に戻る
祠?のピークは小さく、さらに奥へ。
しかしこの尾根、どう見ても人の手が入っています。
この歩きやすさはハイキングコース並です。 |
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【15】尾根 上に戻る
次のピークは平らで、東西に横長です。
しかし、堀切の1つもなく城跡感に欠けます。
もうちょっとだけと、まずは東へ。 |
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【16】治部ヶ尾城へ続く尾根 上に戻る
やっぱり何も無いよなぁ・・・
なんて言いながら、少しだけ進みました。
この先の尾根にも変化が無さそうです。
ただ、帰ってから地図を見るとこの先に城跡が。
Google Mapには治部ヶ尾城のマークが。
ググってみると、存在を匂わす人はいるものの訪城記はゼロ。
あとちょっとだったので、気付いていればもっと進んでました。 |
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【17】西側のピーク 上に戻る
戻って来て、今度は東西に長い尾根の西側へ。
少し平らな尾根の先に、狭い平地があります。
偉いセンせーが「ここは城跡」と言えば城跡なのでしょうが・・・
一介の変態が「ここは城跡?」と言っても鼻で笑われそうですw |
◆歴史◆
不明です
諸兄は「上杉氏の城と考えられている」で終わっています。
それは、ここが上杉荘を見下ろす小高い尾根上の城だからです。
構造的にも南北朝時代っぽく、尾根を平らにしただけ。
上杉氏がまだここと繋がりのあった時期と合致します。
上杉氏が上杉荘を与えられたのが1252年。
初の皇族将軍が鎌倉に下向した時でした。
上杉重房の孫の代になると、兄が京に残り弟が鎌倉へ。
扇谷家につながる嫡流の孫が、麓に屋敷を構えています。
上杉朝定が光福寺に寄進した書状が残っています。
足利家に嫁いだ娘が、足利尊氏を生んだ候補地でもあります。
しかし、観応の擾乱で上杉朝定が信濃で死去。
以後、上杉氏関連の史料が途絶えます。
尚、史料では「上杉荘」ではなく、八田郷です。
上杉朝定の養子は鎌倉に移り、扇谷に館を構えました。
八田郷の史料で次に現れる上杉氏は上杉憲定です。
1399年に足利義満が上杉憲定に八田郷内の本郷を与えています。
尚、本郷以外の八田郷は、仁木氏に与えられていました。
仁木氏は、観応の擾乱で足利尊氏方の主力でした。
やはり敵対した上杉氏は、上杉荘を没収されていたんですね。
上杉憲定は山内上杉家6代当主です。
当時は幕府と鎌倉府が対立し、その間を取り持っていました。
足利義満は、上杉氏発祥の地を与えることで報いたのかもしれません。
1426年には、御料所だった八田郷上村が足利憲実に返却されています。
これは安国寺に安堵されていた領地でした。
とは言え、上杉氏は関東で争乱に明け暮れていました。
「上杉荘」は、実質的に書面だけの領地だったようです。
所在地:京都府綾部市上杉町小嶋谷 GPS軌跡ダウンロードページ
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