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八田城/京都府綾部市

八田城は、上杉弾正屋敷の近所にありました。
訪問日は2022年8月2日です。

八田城【写真位置】
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八田城は、歴史不明な山城です。
上杉氏発祥の地なので、上杉氏の城?と考えられています。
途中に水道施設があり、そこから少し登れば辿り着きます。
遺構は小さな堀切と、その上にある曲輪のみ。
古い形式のお城だったようです。
八田城【1】
【1】西側麓の道 上に戻る

上杉弾正屋敷跡から徒歩で向かいました。
南西のここら辺から登った先輩がいたのですが・・・
その道を見つけられませんでした。
とりあえず、山に入る道を探すことに。
八田城【2】
【2】西側麓の道 上に戻る

麓には山に沿ってこんな道があります。
しかし、山に入る気配は無く続きます。
八田城【3】
【3】登城口 上に戻る

やがて麓の水道施設に。
ここは多くの方が紹介する登城口です。
前の路肩が広く、クルマを停められます。
八田城【4】
【4】登城路 上に戻る

上の水道施設へ続く道です。
城キチなのでつい「登城路」と書きました^^;
整備された道ではありません。
このまま尾根を一直線に登ります。
八田城【5】
【5】水道施設 上に戻る

途中にある水道施設です。
整地されていますが、元々こんな地形だったのでしょう。
でなければ、こんな物をわざわざ山中には造りません。
妄想を重ねると、腰曲輪だったように思えてきます。
八田城【6】
【6】尾根 上に戻る

水道施設から先は道がありません。
とは言え、下草が無いのであまり変わりません。
真夏に訪ねましたが、小バエがおらず快適でした。
八田城【7】
【7】堀切 上に戻る

尾根を登ると、堀切が出迎えてくれます。
往時もここから登った証拠ですね!
八田城【8】
【8】曲輪 上に戻る

堀切の上は、広い平らな空間です。
明らかに人の手が加わった削平地です。
とは言え、堀切は手前の1つだけで土塁も無し。
お城としては古い形式のようです。
八田城【9】
【9】奥の尾根 上に戻る

等高線付き地図ではまだ山の途中。
もっと上にも何かあるのでは?と奥へ進みました。
曲輪の奥には、少し下る尾根が続きます。
八田城【10】
【10】尾根に掘られた溝 上に戻る

尾根は間もなく登りに転じます。
しばらくすると溝が現れます。
水の流れにしては不自然で、人の手が加わっていそうです。
その場合、水を流す溝ではなく、歩くための道ということに。
ただ、そんな事しなくても歩きづらい場所ではありません。
ということは、迷子防止の目印でしょうか。
里人の避難所的な山で時々見られます。
八田城【11】
【11】次のピーク 上に戻る

尾根を進むと、次のピークが見えてきました。
予想通りというか、上が平らになっています。
ここにも人の手が加わっているようです。
八田城【12】
【12】人の手が加わったように見える尾根 上に戻る

平らで少し窪んだ尾根がさらに奥へと続きます。
八田城【13】
【13】小屋 上に戻る

今度はピークに小さな小屋が。
ちょっとした高まりなので祠っぽくもあります。
しかし、閉じており何も拝めず。
物置きなのか何なのか。
やっぱり祠でしょうか・・・?
八田城【14】
【14】尾根 上に戻る

祠?のピークは小さく、さらに奥へ。
しかしこの尾根、どう見ても人の手が入っています。
この歩きやすさはハイキングコース並です。
八田城【15】
【15】尾根 上に戻る

次のピークは平らで、東西に横長です。
しかし、堀切の1つもなく城跡感に欠けます。
もうちょっとだけと、まずは東へ。
八田城【16】
【16】治部ヶ尾城へ続く尾根 上に戻る

やっぱり何も無いよなぁ・・・
なんて言いながら、少しだけ進みました。
この先の尾根にも変化が無さそうです。
ただ、帰ってから地図を見るとこの先に城跡が。
Google Mapには治部ヶ尾城のマークが。
ググってみると、存在を匂わす人はいるものの訪城記はゼロ。
あとちょっとだったので、気付いていればもっと進んでました。
八田城【17】
【17】西側のピーク 上に戻る

戻って来て、今度は東西に長い尾根の西側へ。
少し平らな尾根の先に、狭い平地があります。
偉いセンせーが「ここは城跡」と言えば城跡なのでしょうが・・・
一介の変態が「ここは城跡?」と言っても鼻で笑われそうですw


◆歴史◆

不明です

諸兄は「上杉氏の城と考えられている」で終わっています。
それは、ここが上杉荘を見下ろす小高い尾根上の城だからです。
構造的にも南北朝時代っぽく、尾根を平らにしただけ。
上杉氏がまだここと繋がりのあった時期と合致します。

上杉氏が上杉荘を与えられたのが1252年。
初の皇族将軍が鎌倉に下向した時でした。
上杉重房の孫の代になると、兄が京に残り弟が鎌倉へ。
扇谷家につながる嫡流の孫が、麓に屋敷を構えています。
上杉朝定が光福寺に寄進した書状が残っています。
足利家に嫁いだ娘が、足利尊氏を生んだ候補地でもあります。
しかし、観応の擾乱で上杉朝定が信濃で死去。
以後、上杉氏関連の史料が途絶えます。
尚、史料では「上杉荘」ではなく、八田郷です。
上杉朝定の養子は鎌倉に移り、扇谷に館を構えました。

八田郷の史料で次に現れる上杉氏は上杉憲定です。
1399年に足利義満が上杉憲定に八田郷内の本郷を与えています。
尚、本郷以外の八田郷は、仁木氏に与えられていました。
仁木氏は、観応の擾乱で足利尊氏方の主力でした。
やはり敵対した上杉氏は、上杉荘を没収されていたんですね。

上杉憲定は山内上杉家6代当主です。
当時は幕府と鎌倉府が対立し、その間を取り持っていました。
足利義満は、上杉氏発祥の地を与えることで報いたのかもしれません。
1426年には、御料所だった八田郷上村が足利憲実に返却されています。
これは安国寺に安堵されていた領地でした。
とは言え、上杉氏は関東で争乱に明け暮れていました。
「上杉荘」は、実質的に書面だけの領地だったようです。


所在地:京都府綾部市上杉町小嶋谷 GPS軌跡ダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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