2022/10/14
上杉弾正屋敷/京都府綾部市
上杉弾正屋敷は、上杉氏発祥の地です。
訪問日は2022年8月2日です。
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上杉弾正屋敷の跡地には、上杉天満宮があります。
周囲を田んぼに囲まれており、迷わないと思います。
西北西の交差点脇には、上杉姓氏発祥之地の石碑があります。
歴史をかじるオタとしては、感慨深い場所であります。 |
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【1】上杉姓氏発祥之地の石碑 上に戻る
文字がハッキリ刻まれた石碑です。
他の意味に間違いようが無い位に^^
石碑の前は路肩が広く、心逝くまで堪能出来ます。 |
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【2】上杉天満宮の入口 上に戻る
石碑から東へ進むと、道端に案内があります。
大きくは無いですが、よくわかります^^
奥に見える木々の茂る場所が屋敷跡です。 |
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【3】上杉天満宮 上に戻る
神社の西側から見た所です。
車は鳥居の前に停められます。
ココはお城ではありませんが・・・
周囲より少し高くなっています。
御屋敷の入口もココだったのでしょうか。 |
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【4】上杉天満宮社殿 上に戻る
上杉天満宮の社殿です。
こじんまりとしていますが、更に一段高いです。
他の城跡同様、神様に二礼二拍一礼のご挨拶。 |
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【5】上杉弾正屋敷の説明板 上に戻る
上の写真にも写っていますが、説明板があります。
ここに、あちこちで紹介されている内容が記されています。 |
◆歴史◆
1252年、藤原重房に上杉荘が与えられました
藤原重房は中流貴族で、式乾門院の蔵人を務めていました。
式乾門院は後高倉院の第1皇女、蔵人は秘書的なものです。
余談ですが、式乾門院は荘園を数多く所有していました。
その荘園は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に没収されていたものです。
後鳥羽上皇の崩御後に後高倉院→式乾門院と継承されました。
式乾門院の後は姪の室町院に引き継がれますが・・・
「室町院領」と呼ばれる荘園群は、皇室を二分する程莫大なのでした。
1251年に式乾門院が崩御した後、藤原重房は宗尊親王に仕えたようです。
宗尊親王は式乾門院の猶子でした。
1252年、宗尊親王が、鎌倉幕府6代将軍として鎌倉に下向しました。
この時に随行した功として、上杉荘が与えられたとされます。
与えられた領地から、上杉姓を名乗るようになりました。
上杉姓の初見をググっても出てこないので、時期は?です(;'∀')
上杉家は足利家と深い繋がりを持ちました
上杉重房は、鎌倉時代での全盛期を迎えていた足利義氏に接近しました。
足利義氏は北条得宗家に近く、長老的な存在でした。
子の足利泰氏が無断出家していたため、孫の足利利氏が家督を継ぎます。
足利利氏は、足利頼氏と改名。
上杉重房は娘(または妹)を足利頼氏に嫁がせます。
足利頼氏は北条得宗家からも正室を迎えましたが・・・
21、2歳で若死し、側室が生んだ子しかいませんでした。
ということで、上杉家の血を引く足利家時が家督を継ぎます。
1266年、宗尊親王が謀反の疑いで将軍を解任されました。
将軍が謀反って一体誰に?とツッコミたくなりますが・・・
宗尊親王は京へ送還されましたが、上杉重房は鎌倉に残りました。
上杉家は足利家と繋がりも持ち続け、足利貞氏にも側室を送りました。

上杉朝定により屋敷が築かれました
正室の生んだ子が若死し、次男の足利高氏が家督を継ぎます。
足利高氏は、上杉荘で生まれたとする説があります。
となると、弾正屋敷以前に上杉荘に拠点があった事になります。
それは廃寺となった常光寺のあった場所と考えられています。
建武の新政後、足利高氏は足利尊氏と改名します。
弾正屋敷は、上杉朝定により築かれたとされます。
上杉家は上杉重顕が嫡流で、上杉憲房が庶流です。
嫡流は室町幕府に仕え、京に拠点を置きました。
一方庶流は鎌倉へ移り、関東管領となります。
嫡流も後に鎌倉へ移り、扇谷に屋敷を構えることとなります。
上杉家にとって、上杉荘は本貫地なのですが・・・
その後の繋がりはあまりよくわかりません。
上杉清子は晩年、上杉家の菩提寺となった光福寺に寄進します。
子の足利尊氏も光福寺に上杉荘の土地を寄進しています。
さらには全国に安国寺を建て、その筆頭を元・光福寺としました。
まるで直轄地のようですが、観応の擾乱が関係ありそうです。
上杉清子の没後、足利尊氏・直義兄弟が争いました。
この争いでは、上杉家は嫡流・庶流とも足利直義に味方しています。
そのため、役職や領地を没収されています。
所在地:京都府綾部市上杉町小嶋 GPSログダウンロードページ
上杉朝定は1352年、信濃で没しました。
足利直義に従って信濃で戦死または病死したとされます。
享年32歳で、家督は従兄弟の子・上杉顕定が継ぎました。
上杉顕定は鎌倉へ移り、扇谷に屋敷を構えています。
この時点で、上杉朝定の上杉荘の領地は無さそうです。
足利尊氏の存命中は陰を潜めた上杉家でしたが・・・
その没後、足利尊氏の子らにより復権します。
以後、関東で絶大な勢力を誇ることとなります。
所在地:京都府綾部市上杉町小嶋 GPSログダウンロードページ
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