2022/10/10
上林城/京都府綾部市
上林城は、綺麗に整備された山城です。
訪問日は2022年8月2日です。
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上林城は、独立丘陵の古城山にありました。
別名は生貫山城、蝸牛ヶ城などです。
室町時代初期に上林氏が入り、本拠とした城です。
木々が伐採され、とても見やすく整備されています。 |
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【1】駐車場 上に戻る
城跡の入口に駐車場があります。
地図では城内まで道が描かれていますが・・・
欲張って失敗した経験多数な私は、かなり慎重です。
ここで車を降り、歩いて登りました。
結論から言うと、この駐車場の奥から車で登れます。
未舗装ですが、街乗りのクルマでも安定して走れる状態です。
左側の道は、すぐに別の駐車場で行き止まりです。
歩いて登る場合は、左から登った方が近道です。 |
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【2】ヘアピンカーブの外側 上に戻る
遠回りしたのは、ここが東の曲輪だと思っていたからです。
ヘアピンの外側には、思った通り平坦地がありました。
結論から言うと、ここは東の曲輪ではありません^^;
東の曲輪直下なので、何かしらあったと思うのですが・・・
等高線は無いですが、主郭とはかなり高低差があります。 |
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【3】主郭の入口 上に戻る
四阿が見え、手前がちょっと虎口風になっています。
普通の山城なら虎口だと喜ぶのですが・・・
ここは明らかに後世に人の手が加わっています。
登って来た道自体も往時あったかどうか。
素直にここが虎口だったとは思えません。
形状的にはそんな感じではありますが。 |
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【4】竪堀 上に戻る
主郭への入口が見えるその脇がこんなです。
ここからは真っすぐ下に溝が伸びています。
城跡で縦一直線の堀は竪堀と呼ばれますが・・・
これは横移動を防ぐとかではなく道のようです。
動線を堀底に限定するのも竪堀の役目。
「竪堀」でよいかと思います。 |
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【5】主郭 上に戻る
グルっと一周回り込んで登り切った所が主郭です。
思っていたよりもずっと平らで広いです。 |
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【6】主郭南側の段差 上に戻る
広い主郭の南端が一段高くなっています。
形をトレースしようと、一周歩きました。
この段差に石垣があるのですが・・・
草で見えず見落としています。
草くらいで石垣を見落とすなど、一生の不覚デスTT |
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【7】真上から 上に戻る
上空が開けていて、周りに民家が無い!
これだけ条件が整っていれば、飛ばさない訳には行きません。
ということで、ドローン様の登場です。
色んな角度で撮ってみましたが・・・
後から見るとアレコレ撮り漏れがあるものです。
そんな中で、割と全体が撮れていたのがコレです。
西の曲輪がだいぶ欠けてしまってますが(汗) |
空撮動画
静止画だけでは勿体ない!
とは言え、空撮はまだまだ初心者です。
誰でも撮りそうな感じで「とりあえず撮り」です。 |
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【8】馬掛曲輪 上に戻る
主郭を堪能したら、周辺の曲輪も!
欲張り城キチは、隅から隅まで堪能します。
まずは北側にある馬掛曲輪へ。
馬掛曲輪は、主郭の北側にある細長い腰曲輪です。
ザックリ測ると、東西に100メートル近くあります。
他の城なら馬場と呼ばれそうな場所です。 |
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【9】馬掛曲輪東端 上に戻る
何となく奥まで進んだ馬掛曲輪ですが・・・
一番奥まで進むと、何となく主郭へ上がれそう!
城キチの眼には、見えざるモノが時々見えます。
そんな直感を信じて、ここを登ってみました。 |
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【10】東の曲輪 上に戻る
あまり平坦ではないのですが、踊り場的な所があります。
他にそれっぽい所が無いので、ここが東の曲輪のようです。
訪問時は虎口ではないかと思っていました。
ヒザ丈位の草むらなら歩いてみるもんですね! |
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【11】馬掛曲輪西端 上に戻る
主郭から竪堀を下り、今度は馬掛曲輪の西へ。
西曲輪を見ようと進める所を進みました。
ここが西曲輪だと思っていましたが・・・
すぐに山道が現れ、下る一方となります。 |
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【12】西の曲輪 上に戻る
山道を下った所に、アスファルトの広場があります。
ここが西の曲輪跡です。
ここにも説明板があります。
山道ですが、城跡へはここからが近道です。 |
◆歴史◆
赤井氏一族・上林氏の城でした。
築城時期は不明ですが、上林氏の城でした。
上林氏は、赤井秀家を祖とします。
赤井秀家は、足利尊氏に従い功を挙げました。
そして丹波国何鹿郡上林庄を与えられます。
以後、姓を上林に改めます。
1533年、光明寺再建奉加帳に12名が名を連ねます
光明寺は上林城の北東約4.5kmにあったお寺です。
1526年頃に始まった細川家の内紛に巻き込まれ焼失しました。
この再建に協力した人物に、上林氏12名が名を連ねます。
ここには「城主」とは書かれていませんが・・・
その表紙に細川晴国の花押があります。
ということで、細川晴国に従っていたようです。
その細川晴国は、1536年に家臣に裏切られ自害しています。
細川家の内紛はかなり複雑なので、紐解くのに時間が掛りそうです。
1575年、織田軍の高田治忠に攻められました
織田軍の明智光秀が丹波に侵攻しました。
これは赤井直正が、足利義昭に従ったためです。
上林城には高田治忠が攻め寄せ、城が焼け落ちました。
この頃から、上林氏が丹波を去り始めます。
ただ、これ以前から徐々に当地を離れ始めたようで・・・
上林久重は浅井家、上林政重は徳川家に仕官しています。
織田家に仕えた上林久茂は当地に残ったかもしれません。
高田治忠が上林を支配したのは、本能寺の変の後のようです。
高田治忠も謎の多い人物です。
明智軍に従って丹波侵攻に従軍していました。
なので、明智光秀配下だったようです。
Wikipediaでは羽柴秀勝に仕えたとあります。
山崎の戦に従軍したともありますが・・・
羽柴秀勝が丹波の主となるのは、本能寺の変後です。
状況的には「明智方として」山崎の戦に参戦したのでしょう。
本能寺の変後、高田治忠が上林庄の領主となります。
その拠点としたのは、光明寺の南にあった山内城でした。
某大聖典の山内城の項で「生貫山城は上林氏に譲った」とあります。
そのため、一族の誰かが残ったのかもしれません。
1601年、藤懸陣屋が置かれました。
関ヶ原の戦で高田治忠が西軍に属したため改易。
代わって藤懸永勝が上林の領主となります。
藤懸永勝も関ヶ原の戦では西軍に属していました。
高田治忠同様、田辺城攻めにも参加していました。
しかし、改易ではなく石高半減で同国内への減封で済んでいます。
織田一族というのが関係しているのでしょうか。
藤懸永勝は、市の方に随伴し近江へ。
浅井家滅亡後は、織田信長の四男・羽柴秀勝を補佐。
藤懸姓を名乗っていますが、織田永継の子です。
織田信長との続柄は?ですが・・・
同族で争った織田家にあって、織田信長の家族の補佐役でした。
かなり見知った関係だったという事でしょう。
上林城を使ったかどうかは?ですが・・・
南西の麓に藤懸陣屋を構えました。
藤懸藩は、大身旗本として明治まで存続しました。
所在地:京都府綾部市八津合町城下 GPSログダウンロードページ
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