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田辺城/京都府舞鶴市

田辺城は、舞鶴にあったお城です。
訪問日は2022年8月1日です。

田辺城【写真位置】
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舞鶴は、城の名が地名になっています。
元々は田辺、それ以前は八田で、守護所がありました。
明治時代、各地にある「田辺」とのダブりを避けたそうで。
「舞鶴城」もあちこちありますが、地名にした所はありません。
さて、お城から地名を取った舞鶴ですが・・・
そのお城の方は、ほぼ跡形もありません

(汗)

僅かに残った本丸跡に、色々建てられています。
それ以外はほぼ完全消滅です。
そんな平城のセオリー通り消えた城の痕跡を訪ねて来ました。
宮津城に続き、ちょっとわかりづらい城跡巡り vol.2です。
田辺城【01】
【1】城門

まずは入口から!
そう思って道を渡って撮ったのが「城門」です。
「城門?何か名前あるでしょ?」
・・・と思ったのは今です。
改めて縄張図を見ると、ここに門はありませんでした。
これだけ立派な門ですが、名前はまだありません(=^・^=)
田辺城【02】
【2】彰古館と城門

もう1つのシンボルが彰古館です。
ここは縄張図に隅櫓が描かれています。
でも「○○櫓」ではないんですね・・・
「彰古館」でググると、出雲大社と自衛隊が。
いずれも貴重な資料を展示している場所でした。
資料館をそれっぽくカッコイイ名前にしたんですね^^
櫓の名前はわからず終いです。
田辺城【03】
【3】本丸の石垣(北側)

彰古館から奥へと石垣が続きます。
あれだけ派手に模擬建築物があると?でしたが・・・
某大聖典を読む限り、この石垣は本物のようです。
それにしては低く見えるのは、堀が無いから。
往時、ここには堀がありました。
埋められてましって低く見えるだけなのでした。
田辺城【04】
【4】本丸の石垣(北東側)

しかし、それにしては石が新しく見えます。
もしかしたら、部分的に復元はあったのかも。
彰古館と城門の写真を見直すと、石垣の積み方が違います。
城門と一緒の復元だと、切り込みハギになりそうです。
野面積みのココは、どうやら本物のようです^^
田辺城【05】
【5】本丸東側

石垣の内側は公園になっています。
端はちょっと放置気味ですが。
土塁の跡のような雰囲気があります。
田辺城【06】
【6】本丸内部

端は草ぼーぼーですが、内部は綺麗です。
綺麗過ぎて、丹後の政治の中心だったとは思えない位に。
田辺城【07】
【7】天守台

痕跡を探しつつ収穫の無いまま1周。
城門裏まで来ると、低い石垣があります。
ココだけ四角く積まれているのは、天守台です。
もっと高かったのか、この高さだったのか。
上が綺麗に並んでるので、この高さだったようです。
天守を建てたとすれば、三階櫓になったでしょうか。
最終的に、天守は建てられませんでしたが。
田辺城【08】
【8】案内図 拡大表示

さて、整備された城跡には大抵あります。
復元整備された現状を示す図です。
どこが何なのかとてもわかりやすいのですが・・・
内容的にはちょっと寂しい感じがします。
田辺城【09】
【9】城門脇の土塁

城門は模擬ですが、土塁はどうなんでしょう。
石垣は周りと積み方が違うので何とも言えず。
まとまった土地が残って公園になったのでしょうから。
その片隅に土盛りが残っていても不思議ではありません。
田辺城【10】
【10】彰古館前にある復元図 拡大表示(北が上になるよう回転)

城門脇の彰古館前にある説明板に、この図があります。
現況と重ね合わされており、どこに何があったかわかりやすいです。
「理解しがたい城跡巡り」には、必須アイテムです。
今回歩いたルートも宮津城と同様、堀跡がメインです。
上の赤い軌跡、図の青い線と似てますよね?
田辺城【11】
【11】二の丸交差点

さて、いよいよここからが難解です。
まずは「二の丸」交差点です。
思い切り城跡らしい地名?です。
とはいえ、名前以外何も無し。
ここがどうだったのか、全く想像がつきません。
田辺城【12】
【12】三の丸堀跡にある水路

二の丸交差点から東へ進み、線路の向こう側へ。
地図で堀の形そのものの道があります。
その道端には、小さな水路があります。
田辺城【13】
【13】大内門跡北側の三の丸堀跡

大内門跡とは知らずに渡った交差点。
ここを歩いたのも、堀跡だからです。
そしてここにも細い水路があります。
堀跡に水路があるのは、排水施設として残したのでしょうか。
よその平城跡でも、堀跡に水路があることが多いです。
田辺城【14】
【14】線路下を潜る水路

大内門北側の外堀跡はまっすぐ続きます。
北へ進むと、線路の下を抜けています。
線路が通るより前から水路があったということですね!
田辺城【15】
【15】線路の北側の三の丸堀跡

お堀は続くよどこまでも♪
そんな鼻歌を口ずさんだとか口ずさまなかったとか。
答えは、今思いついたので後者です。
堀跡が水路なのは、元々川だったからなのかも。
田辺城【16】
【16】屈折する水路

とは言え、自然の川でこの角度はあり得ません(笑)
ガッツリ市街化した平城だからこその地形かもです。
周りはキッチリ真四角に区画されていますから。
城跡の周りだけ、道の形がズレています。
消滅させられたお城の、せめてもの意地でしょうか。
田辺城【17】
【17】二の丸堀跡の道

今度は1本内側に入って二の丸堀跡へ。
現在地と対比した図があることで、とてもわかりやすいです。
路面の破線が、堀跡を示しているかのように見えて来ます^^
田辺城【18】
【18】二の丸堀跡

水路を辿っていたら、舞鶴公園に戻って来ました。
縄張図に門は描かれていませんが、公園に入れます。
公園側の石垣は、本物の二の丸の石垣のようです。
田辺城【19】
【19】二の丸堀跡

Uターンして二の丸外側を反時計回り。
田辺城【20】
【20】二の丸堀跡

二の丸北端への曲がり角です。
道は縄張図と同じ形に曲がっています。
ここにも道端に水路があります。
田辺城【21】
【21】二の丸堀跡

二の丸北端東側の曲がり角です。
二の丸の外周は西へ曲がりますが、水路は直進。
縄張図を見ると、堀は西へ曲がって行き止まりです。
水路は、北にある三の丸堀跡へと続きます。
田辺城【22】
【22】二の丸北端から北へ

訪問時は堀跡だと思って歩いた道です。
水路の無い場所もあるんだと思ってましたが・・・
縄張図では堀ではなく、三の丸内部の道でした。
田辺城【23】
【23】三の丸北東側の堀跡

21から北上した水路を追って、1本東の道へ。
ここは三の丸北東の外周です。
もうお約束じみていますが、水路があります。
掘るより埋める方が楽なのでしょうか。
田辺城【24】
【24】北東側の堀跡

堀は往時はもっと広かった筈です。
埋められ、端が水路になったのでしょう。
時間が経つと堀跡部分だけ窪んだりしますが・・・
ここではそういう感じはありません。
素直に見れば、堀は道幅いっぱいだったのかもしれません。
田辺城【25】
【25】三の丸北端東側の堀跡

三の丸もいよいよここまで。
北東端で西へ曲がります。
田辺城【26】
【26】舟着門跡付近

三の丸の北側は、訪問前はよくわからず。
何となく水堀が三角形なイメージでした。
帰宅してから発掘調査の報告書を発見。
三の丸北端には、船着門がありました。
そうと知ってればもう少し注意してみて来たのですが。
田辺城【27】
【27】舟着門跡付近

とは言え、端までちゃんと堀跡が続いていました。
報告書の図通りなら、国道27号が門跡ということになります。
田辺城【28】
【28】外曲輪から西へ

今度は三の丸北西側の堀跡を南下。
広い道に面影はありませんが堀跡です。
明倫小学校北西角が大手門跡ですが・・・
特に面影も案内も無くスルーしてしまいました。
私が反応したのは、水路が西へ曲がるココです。
田辺城【31】
【31】外曲輪から西へ

ココは西に張り出した外曲輪の北端部分です。
曲がった堀は、西へと一直線に伸びています。
田辺城【29】
【29】西の堀跡

西へ一直線に伸びる堀跡です。
ここは水量が多いですね。
海に近いので満潮なのでしょうが・・・
大雨が降ったらすぐに溢れそうです。
大丈夫なんでしょうか?
田辺城【30】
【30】高野川へ

堀跡水路と高野川の合流地点です。
まさに水門が建設されている所でした。
やっぱりこの水面の高さ、不安ですよね。
田辺城【32】
【32】外曲輪堀跡

三の丸の西側に、南北に長い出曲輪がありました。
その出っ張りの形に沿って水路が曲がっています。
田辺城【33】
【33】三の丸堀跡

大手門跡前の道から、水路が斜めに入って行きます。
縄張図では、南西部分の堀が二重になっている所です。
ここは外側の堀跡ですが、内側にも水路があるようです。
田辺城【34】
【34】三の丸堀跡・裁判所前

斜めの堀跡から舞鶴公園前の道へ。
ここから真っすぐ水路が続きます。
全体的にガッツリ破壊された田辺城。
でもこうやって辿ると、意外と痕跡は残っているものですね。
田辺城【35】
【35】マンホール

南端の堀跡を見て駐車場へ戻る途中。
城門の手前でこれを見つけました。
これもう撮るしかないでしょヾ(*´∀`*)ノ
下ばかり見て歩くのも悪くないものです。



◆歴史◆

長岡藤孝の隠居城として築かれました

長岡藤孝は、細川藤孝の当時の名前です。
細川藤孝は1571年、織田信長から西岡一帯を拝領。
この時から長岡姓に改めます。
細川に復姓するのは、豊前へ移ってからです。
そのため、ここでは長岡姓で記載します。
本能寺の変の際、長岡藤孝は中立の立場をとりました。
この時に隠居して、家督を嫡男・長岡忠興に譲っています。
長岡幽斎(藤孝)が隠居城として築いたのが田辺城とされます。
この時に地名が八田から田辺に改められました。
八田には一色家の守護所がありました。
田辺城がそこに築かれたのかどうかはわかりません。
完成したのは某大聖典では1585年と記載されていますが・・・
舞鶴市の報告書では1591年としています。
明確な史料が無いため、諸説あるようです。

1600年、西軍に攻められました

関ヶ原の戦で、長岡家は東軍に属しました。
長岡忠興は関ヶ原へ出陣し、長岡幽斎が留守を守りました。
石田三成は大坂屋敷に住ませていた大名達に手を出します。
人質をとり味方を増やそうとしたようですが・・・
長岡忠興の妻・ガラシャ夫人は、家臣を使って自害します。
丹後は西軍の大名に囲まれていたため、すぐに攻められました。
寄せ手は福知山城主・小野木重勝や亀山城主・前田茂勝らです。
長岡幽斎は宮津城などを自焼し、田辺城を決戦の地としました。
西軍1万5千人に対し、籠城方は約500人でした。
籠城方が圧倒的に不利でしたが、西軍の攻撃は積極性を欠きました。
というのも、長岡藤孝は当代きっての文化人でした。
西軍の中には、長岡藤孝の弟子も数多くいました。
籠城戦は1か月以上続きましたが・・・
後陽成天皇の勅命により講和が結ばれ開城。
長岡藤孝の身は、亀山城へ移されました。
その2日後、関ヶ原で東軍が勝利しました。
長岡家は戦後、豊前一国を与えられ移りました。
西軍1万5千を釘付けにした功によるものです。

京極高知により破却されました

代わって丹後一国の主となったのが京極高知です。
京極高知は当初、田辺城を居城としました。
しかし、当時の丹後の中心は宮津だったようです。
長岡藤孝が自焼した宮津城を再建し、やがて移ります。
田辺城は、1615年の一国一城令により廃城となりました。

1622年頃、京極高三により再建されました

京極高知の没後、丹後は三分割されました。
嫡男が宮津、次男が田辺、婿養子が峰山を継ぎました。
田辺藩3万5千石の藩主となった京極高三は、田辺城を再建。
二の丸、三の丸も整備し、生まれ変わりました。

1668年、牧野親成が藩主となります

京極高盛が豊岡藩へ移り、牧野親成が藩主となります。
京極高盛は病弱だったそうです。
それが無城主格への移封の理由かどうかは?ですが。
牧野親成は京都所司代で、摂津・河内からの移封です。
京に近い所に領地をまとめたといった所でしょうか。
城主となった牧野親成は、大手門や石垣を整備しました。
以後、幕末まで牧野家が藩主を務めます。

1873年、廃城となります

1871年、廃藩置県により田辺藩は舞鶴県と改称。
これは紀伊の田辺とダブるためでした。
その3カ月後、舞鶴県が豊岡県に統合されました。
1873年に廃城が決まり、取り壊されました。
本丸は舞鶴公園となり、周辺は市街地となりました。
その後、1988年に隅櫓跡に彰古館が開館。
1992年、城門風の資料館が開館して現在に至ります。


所在地:京都府舞鶴市南田辺 GPS軌跡ダウンロードページ
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コメント

相変わらず・・・

堀跡巡りとは視点が相変わらず視点が面白いですね。まさに城を骨の髄までしゃぶり尽くしている感があります^^
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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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