2013/09/29
小倉城/埼玉県ときがわ町(1回目)
小倉城は菅谷館の南西にある舌状台地にありました。訪問日は2012年5月19日です。
※再登城し、新しくブログを書き直しました。よろしければそちらもご参照下さい。

▲大福寺と小倉城の遠景
小倉城の登城路はいくつかあるそうですが、私は大福寺付近から登りました。お寺の前を通る道に「小倉城跡入口」の案内があり道を曲がろうとしましたが・・・軽トラが道の真ん中に停まっていましたw回り込む道はいくらでもあるので大福寺には辿り着きましたが^^

▲登城口にある縄張図(拡大)
登城口には等高線つきの縄張図がありました。立体的でこういうの大好きです



▲登城口
登城口は大福寺の近くです。写真を見た感じでは、建物の脇を細い道が通っているようですが・・・もうすっかり惚け切ってます^^;;;ここから郭1まで10分で着きます。

▲登城路
登城路はとても整備されていて歩き易かったような気が。まぁ、こんな雰囲気なんだと感じ取って下さい


▲石垣の案内
城域に入ったな!と最初に気付いたのがこの案内。縄張図でいう郭3にあります。

▲石垣
小倉城は関東では珍しい、石垣が用いられたお城です。よそではあまり見かけませんが、平べったい石を積んでいます。長野の山城ではこんな感じの石垣が多いようですが・・・福岡の猫尾城跡でも似たような石垣を見た事があります=^・^=

▲郭1
郭3を過ぎるといよいよ郭1です。郭1は周りをぐるりと土塁で囲まれていて、厳重な感じが漂います^^

▲郭1の北虎口
郭1にはいくつか虎口があります。まずは北虎口から。高く盛られた土塁と、屈曲させた通路がよく分かります^^

▲郭1の南虎口
続いて南の虎口。北の虎口と似てますね!同じお城の同じ郭ですからね


▲郭1にある城址碑と説明板
そして、ここには立派な城址碑と説明板があります。遺構もバッチリ!モニュメントもばっちり!オススメですヽ(´ー`)ノ
◆歴史◆
小倉城の築城年は不明ですが、後北条氏の重臣・遠山氏が城主を務めていました。後北条氏に最初に仕えたのは遠山直景です。
遠山直景は元々は室町幕府に仕え、美濃国明知城を本拠としていました。この頃に同じく申次衆として仕えていた伊勢新九郎(北条早雲)と意気投合したようです。
1487年、新九郎は今川氏の内紛を鎮めるよう命じられて駿河に下向しました。この時には同行しなかったようですが、早雲が伊豆を平定する頃には協力していました。
1506年、直景が書いた松田郷延命寺への寄進状があり、この頃には関東に移ったようです。
1524年、北条氏綱が江戸城を攻略し、直景は富永氏、太田氏と共に城代となりました。この時に秩父方面を本拠とする毛呂顕繁が北条氏の傘下に加わりました。扇谷上杉氏は毛呂氏の寝返りを許さず、毛呂氏討伐の兵を起こしました。これが毛呂合戦と呼ばれており、北条氏綱が勝利しています。
1529年、直景は秩父へ兵を出しています。まだこの時には秩父に拠点を持っていなかったのでしょうか。
1530年、河越城の扇谷上杉朝興が吾那蜆城合戦(あがなしじみ)で直景軍を破っています。吾那蜆城の場所は今でも比定されていませんが、秩父あたりだとされています。・・・すると、この頃には直景は秩父に拠点を持っていたことになります。
小倉城は扇谷上杉氏方の難波田氏が城主を務める松山城の西にあります。構造的に東に備えている小倉城は、対扇谷上杉氏の最前線基地だったように見えます。ただ、更に西にある青山城や腰越城は上田氏の城だったそうで・・・
上田氏も秩父を本拠としており、上田朝直は松山城主・難波田憲重の娘婿でした。上田朝直が後北条氏に仕えるのは、河越夜戦のあった1546年以降のことです。
地理的にはすぐ西に扇谷上杉氏の上田氏、東には難波田氏で敵対勢力に挟まれています。後北条方の毛呂氏はちょっ~と南の方です。
この頃は秩父をめぐって扇谷上杉氏と後北条氏の間で小競り合いが続きました。おそらく、毛呂氏を助けるために後北条氏は軍事拠点を周辺に置いたものと見られます。ただ、それを小倉城とするには地の利が無さ過ぎですが・・・w
小倉城が史料に登場するのは、第二次国府台合戦の後です。1564年、この戦で遠山家当主・遠山綱景が討死しました。綱景の嫡男・隼人佐も討死したため、遠山家の家督は綱景の弟・直親が継ぎました。この直親は小倉城主で、小倉城は直親の子・光景が継ぎました。
・・・ということは、この時すでに小倉城はあったということですね^^
1590年、豊臣秀吉により後北条氏は滅ぼされました。小倉城はこの時に廃城になったものと思われます。
遠山氏は後北条氏の重臣中の重臣でしたが、徳川家康に旗本として仕えました。所領は相模国橘樹郡有馬村・馬絹村と都築郡本郷村・新羽村の一部。現在の川崎市宮前区や横浜市都筑区辺りです。うわ、近所w
ちなみに遠山の金さんこと遠山金四郎景元は、明知遠山家の庶流だそうです。300年程前に枝分かれした親戚だったんですね^^
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町田黒
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