2022/01/16
佐田城/大分県宇佐市
佐田城は、大内家で宇佐郡代を務めた佐田氏の城です。訪問日は2021年12月30日です。

別名の「青山城」は、山の名前に由来します。
山全体に構築された大規模な山城です。
山頂の主要部を中心に、それぞれの支峰に砦を構えています。

①登城口
登城口は、お城のだったりそうじゃなかったりの板で賑やかです。
クルマはこの目の前か、道を渡った公民館に停めておけます。

①登城口
数十メートル進むと、「登り口」を示す白い標柱があります。

②D砦・3 虎口?
等高線どおり、緩い傾斜の尾根を登ります。
見た目はそれまでの尾根道とソックリですが・・・
私がピンと来たのは、足元で横一線に並ぶ石です。
ここから先がD砦です。

②D砦・4 横堀
上の石の列の少し先から、左右両脇に堀が見られるようになります。
ここがD砦ですが削平されておらず、両サイドに堀があるだけです。

D砦を過ぎた所が、佐田城の主要部です。
地形を利用して、大きめの堀で曲輪を区切っています。

③主要部・5 堀切
D砦の終端がどこなのかが?ですが、その先に大きな堀切があります。
それまでは緩やかな傾斜が続いていましたが・・・
ここから先は、土の造形のオンパレードですヾ(*´∀`*)ノ

③主要部・36 横堀
上の堀切は、そのまま主要部東側に沿う大きな横堀となります。

③主要部・6 横堀
堀切の先に、城跡は右だと案内があります。
案内が無い状態だと真っすぐ進むように見えますが・・・

③主要部・7 横堀
そのまま進むと「行き止まり」となります。
敵を誘導するための罠でしょうか。

③主要部・8 堀切
堀切から登った所にも、大きな堀切があります。
もう、これだけでお腹いっぱいになりますが・・・
土のお祭りは、まだまだ始まったばかりです


③主要部・9 二郭
さらに堀切を登った先にあるのが二郭です。
D砦と比べれば平らですが、まだまだ削平は甘い感じがします。

③主要部・10 横堀
主要部は、その外周を深い堀で囲まれています。
この辺りの構造は、大友家の城っぽい感じがします。

③主要部・11 堀切
二郭の外周に沿って進むと、曲輪を分断する堀切があります。
堀切というより、横堀から曲輪に上がる通路っぽくも見えます。

③主要部・12 主郭
その奥の最高所にあるのが主郭です。
佐田城址のプレートの後ろに倒れているのが、お城の説明板です。
片方の足元が朽ち果て、重みに耐えられず倒れてしまったようです。
ちょっと寂しげな光景です(´;ω;`)

③主要部・13 横堀
主郭の北側は緩い段曲輪があり、その外側を堀が囲んでいます。

③主要部・14 横堀
堀は、傾斜がある所にも続いています。
竪堀っぽく見えますが、ちゃんと曲輪の外周に沿っています。

③主要部・15 二重堀切
主郭の東側には堀切があります。
かなりザックリ掘られ、土塁も分厚いです


③主要部・16 二重堀切
堀があまりにも長いので、色んな表情を見せてくれます。
構造自体はそんなに複雑ではありませんが、歩いていて飽きません^^

③主要部・17 二重堀切
ココは二重の堀切で、外側の堀切は岩を掘ったものです。

③主要部・18 石垣
先端部の形を保つためか、石垣が見られます。
曲輪先端に石垣を積むのが、佐田城の特徴かもしれません。

③主要部・25 横堀
これは、主郭南端から西へ伸びる横堀です。

③主要部・26 土橋
横堀の途中にある土橋です。
ただ、土橋を上がっても曲輪に登りやすそうには見えません。
堀に沿って進ませた敵を足止めするためのものでしょうか。

③主要部・27 横堀
これは、主要部西側を走る横堀です。
横堀は深く、曲輪側の切岸は数メートルの高さがあります。
攻め寄せた敵を外周に長く間延びさせ、上から攻撃するのでしょうか。

③主要部・28 横堀
主要部北西の三郭を囲む堀です。
岩盤だろうが土だろうが、形優先で掘られた雰囲気があります。

③主要部・29 横堀
横堀とはいうものの、地形の起伏に合わせて掘られています。
曲輪は平らでも、堀はこのようにウネウネと上下しています。

続いて東の支峰にあるB砦です。
等高線数えて、下りるのやめようかなんて思ったりしました。
しかも、間違って隣の尾根を下ったりして一度心が折れました


19・横堀
主要部から少し下った所に、少しだけ横堀があります。
ここがB砦だったら楽なのになんて思ったり、思わなかったり。
まだ先だなぁなんてガッカリしながら、目の前の尾根を下りました。

20・間違えて下った尾根
かなり下り、鞍部っぽい所に着きました。
しかし、向こう側に曲輪っぽさが感じられず。
恐る恐るGPSで確認すると、B砦とは別の尾根でした

諸兄が紹介していないものがあれば良かったのですが・・・
何の変哲も無い、ただの雑木林が広がる尾根でした。

21・B砦手前の鞍部
先程の横堀の所まで登り直し、少しだけシンキングタイム。
主要部はもう見たし、同じような構造なら砦はいいかな・・・?
しんどいしw
そんな弱気になった私の背中を、黒なぽがグイっと押します。
B砦側の尾根を下った所にある鞍部は、木々が伐採されています。
脇には車も通れそうな道が。
宮崎の山でよく見かけた感じで、斜面が一面裸山となっています。

④B砦・直前
GPS見ると、もう目の前のハズですが・・・
B砦の手前側は、こんな感じで天然の逆茂木がw
一見すると進入不可ですが、朽ち果てているので簡単に折れます。

④B砦・土橋
バリバリと逆茂木を踏みつぶしながら進むと、B砦に入る土橋発見。
視界には上のような光景が広がるばかりで、進む気が失せます。
写真撮ろうにも縦横無尽に広がる竹竹竹・・・

④B砦・横堀
それでも反時計回りに進める所を進むと、奥の方はそれ程でもナシ。
こんな感じの横堀で囲まれているだけでしたけど(*´∀`;)

続いて、主要部西側のC砦です。
こちら側は、B砦ほどの比高差はありません。
主要部南~西側の横堀を通って戻り、三郭脇の尾根から進みました。

⑤・30 C砦へと続く尾根
三郭脇からC砦へと続く尾根です。
周囲は急斜面なので「ここ進めそう」と見当がつきます。
一度間違えて関係ない尾根に下った私が言うのも何ですが


⑤C砦・31 堀切
C砦は、主要部側の尾根に堀切があります。
守る側に堀切を入れるというのを、ちょっと考えます。
基本構造は曲輪を横堀で囲んでいるので、それでかもしれません。

⑤C砦・32 堀切
深さ1メートル程の小さなものですが、ちゃんと土塁もあります。

⑤C砦・33 横堀
主要部程ではありませんが、ちゃんと横堀もあります。

⑤C砦・34 竪堀
先端部には、2条の竪堀があります。
横移動を防ぐ、という感じではありませんが・・・
登って来る敵の進路を限定する効果はあるかもしれません。

⑤C砦・35 石垣
先端部外周には、一部このような石垣も見られます。
見た感じは、土留めとして形状を維持するためのようです。

最後に、南西部の尾根に連なるEFG砦です。
こちらもC砦同様、主要部との比高差がB砦ほどはありません。
毎回B砦のように山を登り直す感じだと、流石に体力が

気持ちが折れなかったのは、等高線の本数を見たからでした。

37・D砦横堀の外側にある尾根
E・F・G砦へは、D砦北西角のこの尾根を下ります。
ここもC砦同様、「ここ進めそう」という感じに見えます。

⑥E砦・38 堀切
E砦手前側の堀切です。
毎回飽きもせずに見に行くのは、1本として同じ堀切は無いから。
昨日も7連堀切というとんでもないのを見に行ったばかりです。
こちらは後日書きます(`・ω・´)

⑥E砦・39 堀切
この堀切は、大きな岩を多用しています。
その場で削ったというより、運んできて並べたように見えます。
主要部側から見て左側には、端っこに石垣があります。
そのすぐ奥側に、虎口っぽい構造も見られます。

⑥E砦・40 横堀(下段)
E砦は横堀が2段ありますが、主要部側の1段目は不明瞭です。
こちらは下の2段目で、私をこの堀を辿って奥へ進みました。

⑥E砦・41 竪堀
E砦にも、先端部に浅い竪堀が2条あります。

⑥E砦・42 堀切
ここには先端側にも堀切があります。
似たようなC砦と比べて色々と厳重な感じがします。
C砦よりも敵兵が攻めて来る可能性が高いと判断されたのでしょうか。

⑦F砦・43 堀切
続いて、E砦手前の尾根を下った所にあるF砦です。
F砦は尾根の途中にあるピークにあります。
例によって、主要部側に堀切があります。

⑦F砦・44 横堀
F砦にも横堀はありますが、下り坂となっています。
途中で途切れてしまったので、高い所に登り直しました。

⑦F砦・45 堀切
他の砦同様、先端側にも堀切があります。
堀切というよりも、射撃用の土塁のようにも見えます。

⑧G砦・46 堀切手前
最後は、F砦の下にあるG砦です。
ここは辿り着くと「うわぁー

手前側にいきなりこんな土の壁があるからです。
「これゼッテー何かある!」と期待をせずにはいられません。

⑧G砦・47 横堀
構造は他の砦とは若干異なり、幅の狭い帯曲輪が連なった感じです。
それでも、一番下は横堀で囲まれています。
ただ、こんな感じで超歩きにくくなっています。

⑧G砦・48 炭焼き窯
そして先端にはかなり立派な石垣が!
今まで見た中でも一番綺麗に積まれている、、、?
あまりに綺麗な積み方だったのもそのはず。
真正面に回り込むと、真ん中に入口があり中が空洞。
最後の最後でぬか喜びとは・・・

◆歴史◆
1399年、佐田親景により築かれました
佐田氏は、豊前宇都宮氏(城井氏)から分かれた一族です。
佐田荘の地頭となったのは、1290年の宇都宮通房です。
佐田姓を名乗ったのは、1399年の宇都宮親景からです。
宇都宮親景は、水島の変(1371年)で討死した宇都宮公景の子です。
嫡男ではなく、家督を継いだのは本家からの養子・宇都宮冬綱です。
宇都宮公景の死後、叔父・宇都宮氏治に佐田荘の領地を押領されました。
そこで宇都宮親景は、1399年に佐田荘に城を構えて佐田に改姓。
翌1400年、九州探題・渋川満頼により佐田親景は本領安堵されました。
佐田家は城井家とともに、九州に進出した大内家に従いました。
1556年、大友家に降りました
1555年、厳島の戦で陶晴賢が毛利軍に討たれ、大内家が弱体化。
1556年、大内家と豊前を巡って争っていた大友軍が豊前へ侵攻しました。
宇佐郡衆は抵抗しましたが、大友軍に降伏。
この時に佐田隆居も大友家の配下となりました。
佐田隆居は宇佐郡衆の中心的存在として、毛利家の門司城攻めにも参戦。
門司城への一番乗りを果たし、田原親賢から感状を贈られています。
1587年、佐田氏が城を去りました
豊臣秀吉による九州征伐の結果、大友家は存続しました。
しかし、豊前の領地を没収され、佐田氏は大友氏を頼りました。
城を接収したのは母里友信ですが、その後については?です。
1593年、大友義統が文禄の役での不手際が原因で改易されました。
佐田氏は佐田に戻り、黒田家の客分となりました。
黒田家が転封後も佐田に残り、豊前の主となった細川家に仕えました。
細川家が肥後へ転封になると従い、佐田の地を去っています。
所在地:大分県宇佐市安心院町佐田 GPSログダウンロードページ
大分県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント
無題
スゴイ!
それにしても、この城は本当に楽しいですよね!
歩いていて、全く飽きませんでした。
竪堀と横堀のセットは防備的に考えると面白かったですし、本城に入った場所にある、深くて圧巻の横堀や竪堀は凄かった記憶が鮮明に残ってます。
2022/01/16 17:00 by syunpatsuryoku1号 URL 編集
Re:無題
体力のある内にB砦を攻略したのが良かったかもしれません。最近はなぜか完全制覇を目標にするようになりました。自己鍛錬みたいなものかもしれません。「やり切った!」と感じられます。おかげで時間が足りず行けなかった所が出るようになりましたが。福岡の長野城や千葉の千本城なども、近い内に登場します^^
2022/01/16 17:14 by なぽ URL 編集