2022/01/07
光岡城/大分県宇佐市
光岡城は、豊前国人・赤尾氏の城でした。訪問日は2021年12月29日です。

光岡城は、堀と土塁に囲まれた単郭の城とされます。
ではありますが、北東と北西に細長い平坦地があります。
事前に等高線を見て「何か無いか?」と思いましたが・・・
城跡らしいものは何も見つかりませんでした。
現在は公園として整備され、とても見やすくなっています。

①駐車場
麓の広い所から1本道を登り、その突き当りが城跡の駐車場です。
こんな感じの広く細長い平坦地が、かなりの距離続いています。

②公園入口脇の道
さぁ見るぞと公園に向かうと、入口脇にも道があります。
公園を見るだけでは雑木林ハンターの名が廃る!
そんな名なんど廃れてもいいですが、こちらに吸い寄せられました。

③北西尾根
公園脇の道は、城跡に沿って北西尾根まで続いています。
道としてはそのまま南西に続いていますが、私はこっちの尾根を見ました。
地図で見ただけでもかなり広い平坦地があるはず!と思ったからでした。
確かに細長い平坦地がかなり長く続きますが・・・
堀や土塁といった城跡を示すようなものは何も見つかりませんでした。

④横堀の入口
北西尾根は残念でしたが・・・
公園入口まで戻り「今度こそ!」と思ったら、堀の入口がありました。
城キチとしては堀底を堪能しないという選択肢はありません。
またしても、謎の引力に負けてこちらへ進みました。

⑤堀底
堀は綺麗に整備されたようで、藪などなく歩きやすくなっています。
公園の入口部分は破壊されていますが、ほぼ1周城跡を囲んでいます。

⑥虎口
堀底一周を楽しんでいると、突然行き止まりになります。
この行き止まりの土橋に上がると、虎口になっていました。
城の本来の入口はこちらです。
ちゃんと両脇に土塁があり、原形を留めているようです。
公園化の際に変に手を加えられなかったようで何よりです^^

⑦公園入口
そして、こちらが現在の虎口です。
ここを上がる前に2度ほど脇道に逸れましたが・・・w

⑧城址碑
公園に入ってすぐの所で、右に櫓台があります。
その目の前に、小さな城址碑もあります。
公園はガッツリ整備されている割に地味だと思いましたが・・・
裏を返せば、なるべく原形を維持しよう!ということなのかも。

⑨内部
内側からは、周りを土塁で囲まれている光景が広がります。
これこそザ・城跡!という感じで、私は好きです。

⑩土塁上から見た横堀
先程は堀底を歩いたので、今度は土塁上から眺めます。
写真にすると立体感ゼロですが、高低差は5メートルほどあります。

⑪奥から見た城内
一番奥から見た城内の様子です。
余計なものは無く、端に四阿が1つあるだけです。
中央には、柱跡だったか礎石だったか、建物跡を示すものがあります。

開けていて風がなければ、もう飛ぶしかありません!
ということで、当日3度目の空撮です。
堀に囲まれた様子を撮りたかったのですが、堀、目立ちませんね

しっかりほぼ一周囲んでいるので、心の目で補って見て下さい。
◆歴史◆
1350年、赤尾種綱により築かれたとされます
赤尾氏については、どのサイトよりも『宇佐郡地頭伝記』が詳しいです。
出自は筑紫郡の原田氏で、平家に味方して敗れ、人質として鎌倉へ。
その後、承久の乱では後鳥羽上皇に味方して敗れ、豊前国仲津郡に潜伏。
天帝の一人、赤帝に由来するとする旗を宇佐八幡宮に奉納しました。
これが赤尾姓の由来だそうです。
1336年、足利尊氏に味方して、京奪還戦で活躍。
1350年4月、豊前国高家郡吉田村の地頭となります。
この時期、足利尊氏は弟の足利直義と対立しました。
いわゆる「観応の擾乱」ですが、1350年11月に始まっています。
恩賞にしては遅過ぎると感じましたが、そういう事だったんですねw
大内氏に従ったのは応安年間(1368~75年の間)と書かれています。
この年代は大内弘世が当主で、今川了俊が九州探題になった頃です。
九州探題・今川了俊は、九州奪還のため南朝方と激しく争いました。
大内軍が九州へ出陣するようになるのは、1371年からです。
その後、吉田村を赤尾村と改名しています。
1534年には大内義隆に従い、勢場ヶ原の戦で大友軍と戦っています。
1556年、大友義鎮に降りました
1551年、陶晴賢が謀反を起こし、大内義隆が討たれました。
その後も陶晴賢を中心とする大内家に従いましたが・・・
その陶晴賢も、1555年に厳島の戦で毛利元就により討ち取られました。
すると、以前から豊前を巡って争っていた大友軍が侵攻して来ました。
赤尾賢種らは龍王城に立て籠りましたが、大友家に降りました。
1566年、麻生親政を討ちました
高尾城主・麻生親政が毛利家に寝返り、謀反を起こしました。
これは、人質の嫡男・七郎が、田原新七郎を斬り殺したためです。
田原新七郎は、大友家加判衆筆頭・田原親賢の養子です。
麻生七郎は、日頃からいじめられていてキレたようで・・・
田原新七郎を斬り殺した後、自害しました。
麻生親政は毛利家に支援を要請する使者を送ったものの失敗。
田原親賢は、赤尾氏ら宇佐郡衆に麻生親政を討伐させました。
麻生親政はよく戦ったものの、一門18名とともに城で自害しています。
大友義鎮は赤尾賢種・弥次郎父子の功を賞し、偏諱を与えました。
赤尾賢種は鎮房、弥次郎は統秀と改名しました。
1573年、赤尾氏が滅ぼされました
赤尾鎮房が病没し、5月に四十九日の法要が営まれました。
この時、毛利家に寝返った時枝鎮継・佐野親重らの襲撃を受けました。
時枝鎮継は大友家に降ったものの、反大友勢力の急先鋒でした。
法要に参列していた赤尾家一門はほぼ全滅。
当主・赤尾統秀の弟・赤尾行種は、大友宗麟のもとへ逃れました。
この時救援に駆け付けた中島統次は伏兵に遭い撤退しましたが・・・
1585年、時枝城に夜襲を掛け攻め落とし、一矢報いています。
豊前国人一揆、破却されました
豊臣秀吉による九州征伐後の1587年、豊前で国人一揆が起きました。
これは、新たに領主となった黒田家に反発して起きたものです。
ただ、国人衆は個別に蜂起したため、各個撃破され鎮圧されました。
一揆鎮圧後、黒田家は再発防止のため各地の城を破却しました。
光岡城もこの時に破却されたと伝わります。
所在地:大分県宇佐市赤尾 GPSログダウンロードページ
大分県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント