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妙見嶽城/大分県宇佐市

妙見嶽城は、大友家中を牛耳った田原親賢の城でした。

訪問日は2021年12月29日です。



【位置・再】妙見嶽城



城跡は、割とメジャーな妙見山の頂上にありました。

メジャーだと感じたのは、案内と駐車場があるからです。

訪問中、人っ子一人として見かけませんでしたが・・・

ダム周辺には案内が無く、駐車場もただ路肩が広いだけですあせる

登城口の位置は目星を付けていたので、難なく辿り着けました。



【1】妙見嶽城

①登城口 説明板を表示



それらしい場所に、それらしい物体。
そう、ここが登城口です。

登城路は左脇のように見えますが、右脇の暗い方です。



【2】妙見嶽城

②登城路



はじめのうちはハッキリした綺麗な道ですが・・・

割とすぐに石コロコロの沢っぽくなり、やがてこんな感じに。

道はほぼ見えませんが、案内だけは定期的に現れます。

ちょっとわかりづらかったので、ピンクのリボンを付けて来ました。



【3】妙見嶽城

③射場越



登り道をズンズン登ると、ちょっとした鞍部に着きました。

ココには「射場越」のプレートがありました。

名前からして城跡感に溢れています。

ただ、迎え撃つ感じの造形は無く、ただ平らな場所です。

ここで弓を撃ち合う激しい戦闘があったそうです。



【4】妙見嶽城

③射場越



主郭側に、少しだけ半月状に窪んだ所があります。

浅いですが、明らかに人為的な感じがします。



【5】妙見嶽城

④竪堀



射場越からは尾根の左脇を登り、やがて白い立札が現れました。

これは竪堀についてのもので、ここから所々に見られるようになります。

立札脇の斜面には浅い竪堀が並んで畝状になっていますが・・・

写真で見ると、ただの藪にしか見えず。

「あ、また藪の写真w」になるので、ここのは載せません。



【6】妙見嶽城

⑤手洗岩のある曲輪



先程の竪堀からすぐに、細長い曲輪に出ます。

奥に見えるのが、色んな所で紹介されている手洗岩です。

遠くから見ると、イースター島のアレっぽく見えます。



【7】妙見嶽城

⑤手洗岩



綺麗に削られていますねラブラブ

左右と奥の切り込みがちょっとだけ気になりますが。



【8】妙見嶽城

⑥手洗岩のある曲輪先端



細長い曲輪なので、とりあえず先端まで行ってみました。

すると、この先にも何かありそうなヨ・カ・ン^^



【9】妙見嶽城

⑥連続堀切の先



5メートル位下りてみると、ちょっとした段差と浅い堀切がありました。

その先にもいくつも段が連なっており、ちょっとだけ掘ってあります。

段曲輪にしては狭過ぎるので、連続堀切でしょうか。

結構下りてみましたが、キリが無さそうなので戻りました。

下りたらまた登らないといけませんからネ!



【10】妙見嶽城

⑦段曲輪



手洗岩のある曲輪からは、段曲輪が数段続きます。

その途中にこれがあったのですが・・・

馬場にしては超狭いですw



【11】妙見嶽城

⑧馬場



さっきの案内から2、3段上がると、かなり細長い平坦地に出ます。

きっとこっちが馬場ですねラブラブ
左へ緩やかに曲がっており、地図上で測ると100メートル程あります。



【12】妙見嶽城

⑨馬場から見た主郭下の段曲輪



馬場の一番奥は、尾根の先端の出っ張りまで続いています。

尾根の上が主郭ですが、左脇に道が、尾根上は段曲輪になっています。



【13】妙見嶽城

⑩主郭



段曲輪脇を登り切ると、木々が伐採された広い場所に出ます。

真ん中にカラフルな説明板のあるここが主郭です。



【14】妙見嶽城

⑩説明板の図 図を拡大表示説明板を表示



説明板には色々書かれていますが、左上の図がひと際目を引きます。

この図はよく出来ているので、散策の際に手元にあれば・・・

スマホに撮って、下りながら見るという手もありますね。



【15】妙見嶽城

⑩芝矢倉跡の櫓台



奥には細長い土盛りがあり、脇に芝矢倉跡の立札があります。

文字通り櫓台だったようで、1543年に修理した記録があるそうです。

その記録では三間(約6m)あり、51人がかりで修理したのだとか。

かなり大きな建物だったようですね。



【16】妙見嶽城

⑩芝矢倉跡上空から北側



上空が開けて風もナシ!

これはお空散歩日和ということで、上空から主郭を撮りました。

南西から北東を向き、右手前が主郭、左奥が段曲輪のある尾根です。

・・・左斜め手前方向にある手洗岩方向も撮っておけばよかったあせる



【17】妙見嶽城

⑪主郭脇の通路



主郭まで来ると攻略感で満たされますが、まだ終わりではありません。

主郭の奥にも段曲輪があります。

切岸は下りられない高さではありませんが・・・

お城の構造に沿って動きたいので、回り込んで脇道から奥へ進みました。



【18】妙見嶽城

⑫段曲輪



主郭のすぐ奥にある曲輪は、かなり細長いです。

下に無ければこっちが馬場でもいいくらいです。

某大聖典に載ってる図では、ココの真ん中に石垣が描かれています。

確かに石の列はありましたが、ちょっとだけ高い所の周囲に並ぶ感じでした。

撮っても減るもんじゃないので撮ればよかったのですが・・・

「石垣」から連想するのとは、ちょっと見た目が違う気がしました。



【19】妙見嶽城

⑬畝状竪堀群



長い曲輪の先は、短い段曲輪が5段ほど続きます。

「ああ、段曲輪ね」でUターンするのはちょっと待って下さい。

先端まで下りると、それまでとは全く違う掘り方に変わっていました。

真正面から見ると凸凹のソレは、畝状竪堀群でしたラブラブ

妙見嶽城にはあちこち竪堀がありますが、ココが一番見やすいです。

私は竪堀に気付かない派でしたが、目が慣れてくるとよく見えます♪



【20】妙見嶽城

⑬石垣



うわー、すげー、とウロウロしていたら、段曲輪の切岸に石垣が。

あまり人が来ないであろう山上で、隅から隅まで見たご褒美かも。

九州で見る豊織系以外の石垣は、こんな感じで土留めが主目的のようです。




◆歴史◆



主郭に略年表があるので、それに沿って少しだけ掘り下げてみました。



940年、藤原純友が極楽寺城を築いたと伝わります



藤原純友は平安時代中期の人物で、平将門と同時期に活躍しました。

藤原北家の出身でしたが、親の早世により出世街道から脱落。

伊予掾に任命されて、瀬戸内海の海賊討伐を命じられました。

しかし、そのまま伊予国日振島に土着し、瀬戸内海一帯を牛耳りました。

939年12月、配下の藤原文元に命じて備前介と播磨介を襲撃。

これが平将門が新皇を称したのとほぼ同時だったため、朝廷は大混乱。

しかし、関東の平将門は2ヶ月で鎮圧されてしまいました。

そのため、朝廷は藤原純友の討伐を本格的に開始しました。

藤原純友は朝廷側の船を焼いたり兵器庫を襲ったりで抵抗し続けました。

極楽寺城を築いたとされるのは、そんな時期に当たります。

平安時代のお城なので、籠って守るようなものではなかったと思います。

海賊なら、拠点は海沿いが良さそうに思えますが・・・

941年に本拠地の日振島が陥落し、藤原純友は大宰府に拠点を移します。

しかし、まもなく討伐され、獄中で世を去りました。



1195年、宇都宮信房が大薗氏に妙見岳城を守らせました



宇都宮信房は宗円の次男の子で、豊前宇都宮家の祖に当たる人物です。

下野国生まれで源平合戦で活躍し、豊前国を与えられています。

鎌倉時代初期なので、高い所からの見張り程度だったと思います。



1336年、宇都宮親綱が妙見城を守りました



この年は、足利尊氏が九州に下向した後、京を奪還した年です。

九州では南朝方の菊池武敏が、足利尊氏擁する北朝方と戦っています。

豊前宇都宮家は足利尊氏に従い、多々良浜の戦にも出陣しています。

この年に宇都宮冬綱は宇佐郡に進出し、安心院氏や妙見氏を降しています。

宇都宮冬綱は下野の本家から来た養子で、宇都宮親綱はその次男です。

足利尊氏に従うことで勢力を拡大しましたが、その後、二転三転します。

観応の擾乱が始まると、豊前宇都宮家は足利直義に従います。

その後、南朝方→北朝方と転変し、1359年筑後川の戦で南朝方に大敗。

1361年には少弐頼澄に豊前守護の座を奪われるなど、没落し始めます。



1370年、大内義弘が杉氏に妙見嶽城を守らせました



大内家は観応の擾乱では南朝を支持しましたが・・・

1363年に大内弘世が足利義詮の誘いに乗り、北朝方となります。

子の大内義弘は、九州探題となった今川了俊に加勢して大活躍。

1370年頃から代々、豊前国の守護を務めるようになります。



1499年、佐田泰景は宇佐郡衆とともに妙見尾に在城



佐田氏は1399年、宇都宮親景が佐田姓を名乗った事に始まります。

豊後国を支配した大内氏は、佐田氏を宇佐郡代に任命しています。

1499年の戦いは、大友親治が侵攻し、妙見嶽城で防戦したものです。

この戦で佐田泰景は敗れ、大友軍に捕らえられています。



1500年1月、大友軍が妙見嶽城を奪回



佐田泰景が1月10日に府内から脱出し、大内軍の反撃が始まりました。

1月29日には、杉氏および宇佐郡衆が妙見嶽城を奪回しました

大内軍と大友軍による妙見嶽争奪戦は、1551年まで続きました。



1551年、杉氏撤退、香志田氏城に入る



略年表では杉氏撤退後、城井房統が城代になったと書かれています。

城井房統は城井家当主・城井正房の弟ですが、それ以上は?ですあせる

なぜ杉氏が撤退したかと言えば、陶晴賢が大内義隆を討ったからです。

この杉氏は、豊前守護代・杉重矩のことと思われます。

杉重矩は陶晴賢とは犬猿の仲でしたが、大内義隆にも不満を抱いていました。

そこで利害が一致し協力したものの、主殺しを悔いて蟄居しました。

しかしそれより前、大内義隆に陶晴賢を討つよう進言していた事がバレ・・・

陶晴賢に攻められ自害しています。

これに憤った息子の杉重輔は陶晴賢を恨み・・・

1555年、厳島で毛利軍が陶晴賢を討つと、陶家を攻め滅ぼします。

陶派とはその後も激しく争い、山口を火の海にしました。

これら大内家中の内輪揉めを見て、毛利元就が山口に攻めたようです。



香志田氏は、香下に住んだ田原重種が称した姓のようです。

名前からして大友家臣ですね。

後ろ盾としていた大内家滅亡により、宇佐郡衆は決断を迫られます。



1556年、田原親賢が城主となりました



田原親賢は奈多氏出身の養子で、大友宗麟の正室の兄です。

出家後の「田原紹忍」の方が知名度があるかもしれません。

大友宗麟が田原宗家の力を恐れ、乗っ取るため送り込まれました。

田原親賢は大内家滅亡後の豊前侵攻で大活躍し、不動の地位を築きます。

大友宗麟の側近ではありますが、大のキリシタン嫌いでした。

そのため京の公卿・柳原家から迎えた養嗣子が洗礼すると廃嫡。

総指揮を執った耳川の戦で大敗すると、八つ当たりで教会を焼いています。

そんな田原親賢ですが、大友宗麟の三男を養子に迎え家督を譲りました。

1581年には、田原親盛が妙見嶽城の城代になっています。



1586年、大友義統が逃げて来ました



島津軍が北上し、豊後に攻め込んで来ました。

耳川の戦で崩壊した大友家には、もはや抵抗する力はありませんでした。

それでも大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、九州征伐が始まりました。

大友家に忠誠を誓う家臣達は、それぞれの城に籠り耐え凌ぎましたが・・・

当主の大友義統は戦陣には立たず、高崎城→妙見嶽城の順に逃げました。

どちらも田原家が籠る城でした。

豊臣軍により島津軍は撃退され、大友親盛は豊臣秀吉を訪ね上洛しました。

そこでなぜか気に入られ、豊後一国と豊前の一部を安堵されています。



1593年、大友家が改易されました



文禄の役で敵前逃亡したとされ、大友義統が改易されました。

小西行長が戦死したという報告により、撤退したのでした。

しかしこれは誤報で、小西行長は何とか持ち堪えていました。

そのため、ピンチの味方を見捨てた恰好となりました。

大友義統が改易されたため、田原親盛は細川忠興に仕えました。

名を松野半斎と改め、2千石のち3千石で召し抱えられました。

大友家の豊前の領地は黒田家に与えられました。

妙見嶽城や龍王城は要地のため豊臣家直轄となりましたが・・・

間もなく廃城になったと考えられています。





所在地:大分県宇佐市院内町香下 GPSログダウンロードページ



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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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