2022/01/03
高尾城/大分県宇佐市
高尾城は、別名・麻生城と呼ばれる険しい山城です。訪問日は2021年12月29日です。

高尾城は高山の山頂と支峰から成る山城です。
説明板では「高尾山城」と表記されています。
読み方が「たかおやま」か「たかおさん」かで悩みましたが・・・
いくらぐぐっても出てこず。
おかしいと思ってこの画像を貼ったら「高山」の文字が。
これじゃあ「高尾山」でいくらググっても出て来ませんね


①登城口
登城口は、如何にもな説明板があってわかりやすいです。
ここだけ道幅が広いので、前にクルマを停めても大丈夫そうです。
私は遠く離れた路肩に停めましたが・・・
登りに戻って来たら、別のクルマが停まってるのを見て気付きました


さて、山頂と支峰のフタコブという姿を撮ってみたくなりました。
そう思いつつ林道を登り始め、木々の無い場所に到着。
「風も無いしこれはチャンス!」とばかりに空撮を敢行しました。
少し探せば、わざわざ飛ばなくても撮れる場所くらいありそうですが

事前情報では、登城路は鞍部に出て両峰に登るハズ・・・
ここから見えるのは、普通に歩いて登れる傾斜ではありません。
きっと何か登りやすくする工夫がある、かも?

②林道終点
ずっと林道だったら登城も楽なのですが、城の神様は甘くありません。
間もなく林道はちょっと広い終点となり、道端に目印が沢山あります。
他に行く場所も無いですし、城跡はこっちですね♪

③登城路
目印あってラッキー♪なんて喜んだのも束の間。
なぜ目印があるかといえば、明確な道が無いからです。
林道から先は、ロープに頼ってばかりのロッククライミングとなります。

④三ッ井戸
鈍った体を虐め抜き、ぜぇぜぇ息を荒げながら鞍部に到着。
鞍部は幅が広い平坦地になっていて、人の手が加わった曲輪のようです。
真正面に本城の案内があり、その真後ろに「三ッ井戸跡」のプレートが。
原文ママだと小さい「ッ」です。
素直に読もうとすると、ちょっと息が苦しいかもです。

④三ッ井戸の横堀
平坦な鞍部の中央部分だけ、かなり凸凹になっています。
そして、奥には鞍部に沿って横堀があります。
横堀は本城側で内側に折れ、堀切のように鞍部を分断しています。

⑤支城
好物は取っておいて最後に食べる主義なので、先に支城へ登りました。
こちらもそこそこの傾斜ですが、それまで程には感じませんでした。
そうして登り切ったテッペンが支城の曲輪です。
・・・何も書かずに写真載せると、ただの雑木林ですね

私、世間では「雑木林ハンター」なんて呼ばれてませんよね?

⑤支城
何も無ければただの雑木林ですが、ちゃんとプレートありました

落ちて木の根元に安置されている、ように見えるだけだと思います。

⑤支城
支城は、支峰の頂上に小さな曲輪が連ねただけの造りです。
堀や土塁など派手な造形は無いので、せめてこんな絵面は欲しかったデス。

⑤支城
小さな段曲輪でしたが、段差の所に石垣ありました

喜んで近付いて撮ったら炭焼き窯だったなんて事も多々ありますが・・・
構造的に炭焼き窯ではなさそうなので、お城のものだった事にします。

⑥登城路
支城攻略後三ッ井戸に戻り、今度は本城側に登ります。
それまでもロープだらけで十分しんどかったのですが・・・
本城側の斜面は、それまでの比ではない程キツかったです。
足元は石ころだらけで不安定な上、落ち葉も積もっています。
ロープ掴んでるので落ちませんが、転ぶと結構痛いです(>_<)

⑥登城路
あとはこの傾斜です。
城キチがこんなルートを通る場合、得てして楽な別コースがあります。
しかし、この山に関してはここ以外にありません。
そりゃ大軍で攻めても落ちない訳です。

⑦本城
とんでもなくハードは岩登りが続き、ようやく平坦面に着きました。
ちょっと緑多めなココは、本城南側の小さな腰曲輪です。

⑦本城
奥に進むと1メートル程の段差があり、白いプレートが現れました。
手前側に大きな岩が並ぶここが、高尾城の本城です。
めだった虎口や堀切などはありません。

⑦本城
それでも、城跡であることを示すものがあるだけで満足です。
私も道無き山奥にある城跡に、手書きで何か置いて来た方がよいでしょうか。
・・・なんて事を考えたりもしなくはありません。

⑦本城
本城も支城と同じく、頂上部分に段々に曲輪を構えるだけの構造です。
極めてシンプルですが、明らかに人の手が加わっているのが見て取れます

◆歴史◆
麻生氏の城でした
麻生氏といえば筑前のイメージですが・・・
実は、下野宇都宮一族だったりします。
同族一族ではありますが、ルーツが異なります。
こちらの麻生氏は、宇都宮氏の祖・宗円の次男を祖とします。
一方、筑前の麻生氏は宇都宮氏の祖・宗円の長男を祖とします。
城井氏も次男が祖先なので、城井氏庶流と言えるかもしれません。
1369年、内尾三郎家により築かれたとされます
内尾三郎家は藤原伊周の末裔・高山伊重の三男です。
「藤原伊周の末裔」は?ですが・・・
高山氏、内尾氏は、豊前宇都宮家の一族です。
本格的な城となったのは1460~70年頃です
大内家に命じられて麻生重実が改築し、代官を置いたそうです。
この年代は大内教弘、大内政弘が当主だった頃です。
中央政界とも繋がりが強く、管領の細川勝元と争っていました。
ゴタゴタの続く背後の大友家からの侵攻に備えたものと思われます。
1557年に大内義長が自害した後は、大友家配下となっています。
1565年、麻生親政が離反しました
城主・麻生親政の嫡男・麻生七郎は、人質として大友館に居ました。
そこで、日頃から意地悪をしてきた田原新七郎を殺害。
麻生七郎も自害して果てました。
田原新七郎の父親は、大友家加判衆筆頭の田原親賢です。
麻生親政は大友家を離れ、毛利家に支援を要請しました。
しかし、その使者が途中で捕まってしまいました。
1566年、大友軍に攻められ落城しました
麻生親政が離反したため、田原親賢が高尾城を包囲しました。
城を包囲したのは、同じ宇佐郡内の元同僚達です。
大友軍による激しい攻撃が続きますが、城は堅固で落ちませんでした。
しかし、毛利家からの援軍は無く、麻生親政は枝連衆とともに自刃。
生き延びた三男・乙丸も、後に田原親賢に見つかって殺されました。
所在地:大分県宇佐市麻生 GPSログダウンロードページ
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