fc2ブログ

稲村城/千葉県館山市

稲村城は、里見家の戦国時代前半の本拠地でした。
訪問日は2015年2月21日と2021年12月11日です。

【位置・再】稲村城

稲村城は、北に突き出した丘陵上にありました。
館山の田園地帯を見下ろす絶好のポイントなのだとか。
安房一国の支配者となり、統治の中心にしたのがココだとされます。

【1】稲村城
①防火水槽

よく紹介される登城口は東側にあります。
目印は、田んぼの端っこにある防火水槽です。
場所が場所だけにクルマを停めたら怒られます。
かといって公式な駐車場は無いので、うまく探して下さい
・・・としか言いようが無いですあせる

【2】稲村城
①説明板 拡大表示

上の防火水槽脇に、稲村城の説明板があります。
ココって国の史跡だったんですね!

【3】稲村城
②登城口

案内はありますが、あまり丁寧ではありません。
一度来たことのある私は迷いませんでしたが。

【4】稲村城
③水往来

住宅街の突き当りから始まる道が「水往来」と呼ばれる道です。
名前の由来は不明ですが、水を流せばそのまま流れてくれそうな感じです。
岩盤を掘り下げた道は、里見系城郭の特徴なのだそうです。
そういえば、白浜城岡本城にも岩盤をくり抜いた道がありました。

【5】稲村城
④中郭部

水往来を登り切ると、開けた場所に出ます。
ここは稲村城の曲輪で、中郭部と書かれた札が立っていました。
主郭に次いで広い曲輪なのだそうです。

【6】稲村城
⑤正木様

中郭部は右側が土塁状になっていて、途中に「正木様」の案内があります。
せっかくなので登ってみると、小さな祠が祀られています。
「正木」姓と言えば、里見家では重臣中の重臣です。
里見家の本拠だったので、この付近にお屋敷があったのでしょうか。

【7】稲村城
⑤腰曲輪群

正木様の所から中郭部の反対側を見ると、緩い斜面になっています。
ここには段々の曲輪群があったとされています。

【8】稲村城
⑥西水往来と主郭への分岐

中郭部に戻り奥へ進むと、岩盤を掘り抜いた道が現れます。
この道は「西水往来」と呼ばれ、反対側の貴船神社付近に通じています。
そちらにも登城口はありますが、道は狭く車を停められません。
西水往来の手前には、主郭→の案内があります。

【9】稲村城
⑦主郭へ続く細尾根

分岐からは、細尾根状の道が続きます。
一度に大勢で押し寄せられないようにしているのでしょうか。

【10】稲村城
⑧主郭手前

やがてちょっとした高台が見えて来ます。
この上が主郭です。
正面は土の壁が横切り、右側に堀切があります。
何となくですが、右へ進ませたい意図が透けて見えます。
この造りに気付かなかった私は、左前方の土の壁目掛けて進みましたがあせる

【11】稲村城
⑧堀切

右側に見えた堀切です。
この奥にも通路があって、主郭の反対側に通じています。

【12】稲村城
⑨主郭西側の虎口

土塁の外側を回り込むと、緩い凹みを通って上がれます。
お札が立っていたのでわかりましたが、これが虎口だそうです。
崩されているのかもしれませんが、技巧的な感じはしません。

【13】稲村城
⑨主郭西側の虎口

せっかくなので、上からも撮りました。
ここでどうやって敵を防ぐのか、ちょっと想像がつきにくいですあせる

【14】稲村城
⑩主郭 説明板を表示

広くて見晴らしのいいココが、稲村城の主郭です。
木が伐採され、眺めはとても良いです。
籠って守るより、平時の統治に重きが置かれた感じがします。

【15】稲村城
⑪主郭南側の土塁

主郭の北側は眺めが良いですが、南側は土塁が聳えています。
土塁の向こう側は急斜面なので、出入口を虎口に限定しています。

【16】稲村城
⑪主郭東側の虎口

上がって来たのとは反対側にも、同じような感じの虎口があります。
お札はありませんが、反対側が虎口ならこっちもだろうと下りてみました。

【17】稲村城
⑫主郭東側の堀切

虎口を下りてすぐの所に堀切があります。
この堀切は東側の尾根を断ち切る他、主郭を回り込む道にも通じています。
もしかしたら、門の役目もあったかもしれません。

【18】稲村城
⑬東側の尾根

主郭の東側には、細長い尾根が続きます。
高さはあまり変わらず、細長い曲輪が続いています。
某大聖典の図では、東側には堀切が1つしか描かれていませんが・・・
尾根がずっと城域として続いているので、ある予感を感じて先端へ!

【19】稲村城
⑭堀切・土橋

赤いバッテン印に「この先へは進めません」のお札が現れます。
その先は深い溝があり予感的中!
すぐ近くに土橋がありました。
ここで、細長く続いている尾根をぶった斬っています。
ただ土橋があるということは、ここが通路だった証拠。
更に先も見てみたくなりましたが・・・

【20】稲村城
⑭堀切の先

土橋の先にも平坦面は続いていますが、天然の竹垣となっています。
無理すれば通れなくもないですが、そこまでする気も起きず。
帰りは⑫の堀切から、主郭に沿って⑧の堀切へ出ました。


◆歴史◆

里見成義により築かれたと伝わります。

里見成義は、実在が疑問視されている里見家2代当主です。
築城を始めたのが初代・里見義実の晩年の1488年。
完成したのがその没後の1491年と伝わります。
里見義実は、白浜城の次に千田城を居城としたとされます。
稲村城も千田城も、白浜城より館山の中心部に近づいています。
どちらも低い舌状台地の先端部に広い曲輪があり、構造が似ています。
実在が疑問視されているものの、里見家のつながりが自然になります。
発給文書が残っていない一国のお殿様、謎は深まるばかりです。

1533年、稲村の変が起きました。

その名の通り、稲村城を舞台とした政変です。
主人公は里見義豊と里見実堯・義堯父子です。
里見家初の家督争いです。

従来の通説は、
・里見義豊が5歳の時に先代の里見義通が死去
・里見義豊が15歳になるまで叔父の里見実堯が当主を代行
・里見義豊が20歳になっても里見実堯が当主の座を譲らず
・怒った里見義豊が里見実堯を殺害
・里見実堯の子・義堯が親の仇を討ち、次の当主となった
というものでした。
しかし、史料を辿ると逆だったようで
・里見義通の次は、既に成人していた里見義豊が家督を継いだ
・里見義豊は、後北条家と接近しつつあった里見実堯を恐れ殺害
・里見義堯が謀反を起こし、里見義豊を討って家督を奪った
という内容です。

この政変後、里見義堯は上総国の久留里城を本拠としました。
稲村城は政変直後に廃城になったと伝わります。


所在地:千葉県館山市稲 GPSログダウンロードページ

千葉県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

無題

何年も前の真夏に汗だくになりながら訪問したのを思い出しました。
電車で行ったので、帰りの車内では汗臭かっただろうなーと(笑)

矢印の案内板、新しくなってるのもあるんですね(^o^)

Re:無題

>御城学さん
そういえばココは道が綺麗ですし、夏向きですね。
夏のツーリング用にとっておけばよかった(汗)
非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR