2021/12/20
稲村城/千葉県館山市
稲村城は、里見家の戦国時代前半の本拠地でした。訪問日は2015年2月21日と2021年12月11日です。

稲村城は、北に突き出した丘陵上にありました。
館山の田園地帯を見下ろす絶好のポイントなのだとか。
安房一国の支配者となり、統治の中心にしたのがココだとされます。

①防火水槽
よく紹介される登城口は東側にあります。
目印は、田んぼの端っこにある防火水槽です。
場所が場所だけにクルマを停めたら怒られます。
かといって公式な駐車場は無いので、うまく探して下さい
・・・としか言いようが無いです


①説明板 拡大表示
上の防火水槽脇に、稲村城の説明板があります。
ココって国の史跡だったんですね!

②登城口
案内はありますが、あまり丁寧ではありません。
一度来たことのある私は迷いませんでしたが。

③水往来
住宅街の突き当りから始まる道が「水往来」と呼ばれる道です。
名前の由来は不明ですが、水を流せばそのまま流れてくれそうな感じです。
岩盤を掘り下げた道は、里見系城郭の特徴なのだそうです。
そういえば、白浜城と岡本城にも岩盤をくり抜いた道がありました。

④中郭部
水往来を登り切ると、開けた場所に出ます。
ここは稲村城の曲輪で、中郭部と書かれた札が立っていました。
主郭に次いで広い曲輪なのだそうです。

⑤正木様
中郭部は右側が土塁状になっていて、途中に「正木様」の案内があります。
せっかくなので登ってみると、小さな祠が祀られています。
「正木」姓と言えば、里見家では重臣中の重臣です。
里見家の本拠だったので、この付近にお屋敷があったのでしょうか。

⑤腰曲輪群
正木様の所から中郭部の反対側を見ると、緩い斜面になっています。
ここには段々の曲輪群があったとされています。

⑥西水往来と主郭への分岐
中郭部に戻り奥へ進むと、岩盤を掘り抜いた道が現れます。
この道は「西水往来」と呼ばれ、反対側の貴船神社付近に通じています。
そちらにも登城口はありますが、道は狭く車を停められません。
西水往来の手前には、主郭→の案内があります。

⑦主郭へ続く細尾根
分岐からは、細尾根状の道が続きます。
一度に大勢で押し寄せられないようにしているのでしょうか。

⑧主郭手前
やがてちょっとした高台が見えて来ます。
この上が主郭です。
正面は土の壁が横切り、右側に堀切があります。
何となくですが、右へ進ませたい意図が透けて見えます。
この造りに気付かなかった私は、左前方の土の壁目掛けて進みましたが


⑧堀切
右側に見えた堀切です。
この奥にも通路があって、主郭の反対側に通じています。

⑨主郭西側の虎口
土塁の外側を回り込むと、緩い凹みを通って上がれます。
お札が立っていたのでわかりましたが、これが虎口だそうです。
崩されているのかもしれませんが、技巧的な感じはしません。

⑨主郭西側の虎口
せっかくなので、上からも撮りました。
ここでどうやって敵を防ぐのか、ちょっと想像がつきにくいです


⑩主郭 説明板を表示
広くて見晴らしのいいココが、稲村城の主郭です。
木が伐採され、眺めはとても良いです。
籠って守るより、平時の統治に重きが置かれた感じがします。

⑪主郭南側の土塁
主郭の北側は眺めが良いですが、南側は土塁が聳えています。
土塁の向こう側は急斜面なので、出入口を虎口に限定しています。

⑪主郭東側の虎口
上がって来たのとは反対側にも、同じような感じの虎口があります。
お札はありませんが、反対側が虎口ならこっちもだろうと下りてみました。

⑫主郭東側の堀切
虎口を下りてすぐの所に堀切があります。
この堀切は東側の尾根を断ち切る他、主郭を回り込む道にも通じています。
もしかしたら、門の役目もあったかもしれません。

⑬東側の尾根
主郭の東側には、細長い尾根が続きます。
高さはあまり変わらず、細長い曲輪が続いています。
某大聖典の図では、東側には堀切が1つしか描かれていませんが・・・
尾根がずっと城域として続いているので、ある予感を感じて先端へ!

⑭堀切・土橋
赤いバッテン印に「この先へは進めません」のお札が現れます。
その先は深い溝があり予感的中!
すぐ近くに土橋がありました。
ここで、細長く続いている尾根をぶった斬っています。
ただ土橋があるということは、ここが通路だった証拠。
更に先も見てみたくなりましたが・・・

⑭堀切の先
土橋の先にも平坦面は続いていますが、天然の竹垣となっています。
無理すれば通れなくもないですが、そこまでする気も起きず。
帰りは⑫の堀切から、主郭に沿って⑧の堀切へ出ました。
◆歴史◆
里見成義により築かれたと伝わります。
里見成義は、実在が疑問視されている里見家2代当主です。
築城を始めたのが初代・里見義実の晩年の1488年。
完成したのがその没後の1491年と伝わります。
里見義実は、白浜城の次に千田城を居城としたとされます。
稲村城も千田城も、白浜城より館山の中心部に近づいています。
どちらも低い舌状台地の先端部に広い曲輪があり、構造が似ています。
実在が疑問視されているものの、里見家のつながりが自然になります。
発給文書が残っていない一国のお殿様、謎は深まるばかりです。
1533年、稲村の変が起きました。
その名の通り、稲村城を舞台とした政変です。
主人公は里見義豊と里見実堯・義堯父子です。
里見家初の家督争いです。

従来の通説は、
・里見義豊が5歳の時に先代の里見義通が死去
・里見義豊が15歳になるまで叔父の里見実堯が当主を代行
・里見義豊が20歳になっても里見実堯が当主の座を譲らず
・怒った里見義豊が里見実堯を殺害
・里見実堯の子・義堯が親の仇を討ち、次の当主となった
というものでした。
しかし、史料を辿ると逆だったようで
・里見義通の次は、既に成人していた里見義豊が家督を継いだ
・里見義豊は、後北条家と接近しつつあった里見実堯を恐れ殺害
・里見義堯が謀反を起こし、里見義豊を討って家督を奪った
という内容です。
この政変後、里見義堯は上総国の久留里城を本拠としました。
稲村城は政変直後に廃城になったと伝わります。
所在地:千葉県館山市稲 GPSログダウンロードページ
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コメント
無題
電車で行ったので、帰りの車内では汗臭かっただろうなーと(笑)
矢印の案内板、新しくなってるのもあるんですね(^o^)
2021/12/24 02:21 by 御城学 URL 編集
Re:無題
そういえばココは道が綺麗ですし、夏向きですね。
夏のツーリング用にとっておけばよかった(汗)
2021/12/24 19:29 by なぽ URL 編集