2021/12/16
白浜城/千葉県南房総市
白浜城は、安房の大名・里見家初期の本拠でした。訪問日は2021年12月11日です。

白浜城の登城口は、東西の2か所がよく知られています。
西側の登城口は、県道沿いに展望台の小さな案内があります。
その突き当りに白い板が見える所が①の登城口です。
東側の登城口は⑨の青木観音堂脇で、大手だったと考えられています。
こちらも県道沿いに案内があります。
しかし、住宅街の間を縫った所にあり、少しわかりづらいです。
車は100メートル程東にある青根原神社の前に停められます。

①西側の登城口
私は西側の登城口から攻めました。
本当は東側から攻めるつもりでしたが・・・
県道沿いの案内を見たら我慢出来ませんでした。
別にどちらからでも良く、こだわりもありませんでしたけどw

①西側の登城口上空から見た城山
周りに民家が無くて見晴らしもいいとなると、空を飛びたくなります♪
ということで、真っすぐ上昇して撮りました。
等高線からの想像通り、城山を中心に北西と北東に尾根が伸びています。
写真の黄色い○印が第二展望台、赤い○印が第一展望台です。

①西側の登城口
そしていざ山へ!
ハイキングコースらしく、色々とにぎやかです。
奥に図がありちょっとだけ期待しましたが、植生を示す図でした

城跡らしさゼロな図ですが、撮ったのでご希望とあらばアップします。

②整備された登城路
千葉県は、数年前の台風で甚大な被害を受けました。
そのためこの山でもあちこちで木が倒れ、ハイキングコースは荒れ放題。
放置され歩けず藪に覆われている

そんな城跡こそ我が出番!と気合を入れて来たのですが・・・
倒木は綺麗に片づけられ、立派に復活していました。
芥川山城跡で復旧作業を見たことがあり、とても大変だったと思います。
復旧して下さった方々には感謝感謝ですm(_ _)m

③曲輪
白浜城はとにかく規模が大きいお城でした。
しかも年代が古く、どこからが城域なのかが判然とせず・・・
登っている内に、何となく小さな段差が現れるようになります。
曲輪だなーと認識できるようになったのはこの辺からでした。

④段々に連なる曲輪
あからさまに人為的に見えるこの段差。
間違いなく曲輪なのでしょうが・・・
古い城跡なのに、綺麗に馴らされた平らな曲輪。
ここは昔、山全体が畑にされていた時期があります。
曲輪というより、段々畑の跡という感じです。
地図ではこの辺りに白浜城とあり、城の主要部だったようです。

⑤第二展望台
突然現れた木の床と柵。
そして木が伐採されたココが第二展望台です。
台風被害からは完全復活し、歩きづらい箇所は皆無でした。

⑥細尾根
第二展望台から先は、こんな感じの尾根伝いに道が続きます。
先ほどより道が細いのは、第二展望台で帰る人が多いからでしょうか。
道端には、相変わらず小さな曲輪らしき平坦地が次々と現れます。

⑦第一展望台
ハイキングコースから一段上がる階段があり、その先に人工物が。
ここが第一展望台です。
周りは超藪なので見えませんが、櫓台的な雰囲気が漂います。

⑦第一展望台からの眺め
「展望台からの眺めを見せろ」と声が聞こえてきそうなので載せます。
南側に眺望が開け、海の向こうまで見えそうです。
奥に見える山がオーストラリア、な訳ありません(*´艸`*)

⑧岩盤をくり抜いた道
第一展望台から先は、道がどんどん下って行きます。
北東側にも遺構があったはずです。
目立った堀や土塁、虎口など明確な遺構は無し。
ハイキングコースは軽く柵でコースを示しています。
この先に大きな堀切でもあれば乗り越えましたが・・・
倒木乱れる藪に飛び込む気になれず、大人しくコースを下りました。

⑨青木観音堂側の登城口
山肌を掘り込んだ道を下ると、開けた場所が見えて来ました。
ここが青木観音堂で、東側の登城口です。
ハイキングコースは、台風被害から完全復活していました。

⑨青木観音堂側の登城口にある説明板
こちら側にも、西側の登城口と同じ説明板があります。
あちらはペンキも剥げかけボロボロでしたが、こちらのは綺麗です。
◆歴史◆
安房里見氏の祖・里見義実の城と伝わります。
里見義実は実在すら疑われていますが、安房里見氏の祖とされます。
里見氏が安房を統一するまでの経過はよく分かっていませんが・・・
主な説をザックリ書くと
・新田氏の庶流で上野国里見出身(里見城というお城もありました)
・新田氏没落後、室町幕府に従って美濃に領地を得た
・観応の擾乱で足利直義に味方した里見義宗が再び没落
・里見家兼が鎌倉公方・足利持氏に召し出され従う
・1438年の永享の乱で足利持氏が討たれ、里見家兼は自害
・1440年の結城合戦で里見家兼の子・里見家基が討死
・里見家基の子・義実は船で逃れ、安房に上陸し安西氏を頼る
・享徳の乱で鎌倉公方と山内上杉家が対立
・神余家中で下克上した山下定兼を討伐し人望を得る
・鎌倉公方に従う上総の武田信長とともに、山内上杉家の被官を攻略
(当時の安房国守護は山内上杉家でした)
・安房西部の安西氏を討ち、安房一国を統一
なんとなく出来過ぎな感じもしますけど

途中出て来た神余氏の子孫が、上杉謙信の家臣にいました。
神余氏も山下氏も、山内上杉家に従っていたことが間接的にわかります。
そこから彼らと敵対していた安西氏が、鎌倉公方方だと想像出来ます。
後の子孫も古河公方と繋がりがあり、何となくそれっぽさが感じられます

里見義実は安房統一後、1456年までに千田城に移ったと考えられています。
南に偏り過ぎていた白浜城では、国の統治に不便なためでした。
その後、晩年の1488年頃、次の本拠である稲村城を築いています。
所在地:千葉県南房総市白浜町白浜 GPSログダウンロードページ
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