2021/12/15
館山城/千葉県館山市
館山城は、里見氏が最後に本拠としたお城です。訪問日は2007年5月26日と2021年12月11日です。

館山城といえば、白亜の天守が有名です。
ググって出てくるサイト様の写真は、ほぼ天守1枚だけです。
14年前に訪ねた私も例外ではなく、撮った写真が天守数枚だけでした。
幾星霜か流れ、頭に被った卵の殻がだいぶ取れてきました。
かなり公園化されてはいるものの、城跡らしさは無いものか?
素朴な疑問からの再訪問となりました。

①入口
城跡は現在、城山公園として整備されています。
北側には舗装された立派な駐車場があります。
バイクの駐輪場は、歩道脇に線が引かれただけでしたけど

天守の見える入口で、定番っぽい写真を撮ってみました。
周りに見える葉っぱの無い木は全部桜です。
春先には絵になり過ぎて、大変な事になりそうです


①城山公園案内図 拡大表示
立派な公園なので、ちゃんと案内図があります。
城跡としての縄張図が最後まで見つからず残念でしたが・・・
南北が逆のこの図で我慢します。
天守のある曲輪が城山、万葉の小径があるのが千畳敷という曲輪です。
城山の左のBBQ場が新屋敷、梅園が御厨という名の城主様の居館です。

①城内へ上がる道
入口には2つの道があります。
1つはこの車道、もう1つはBBQ場への道です。
こっちへ進め!的な雰囲気ですが、往時は無さそうな道です。

①入口からすぐの腰曲輪
入口から上がってすぐ、遊具のある平地があります。
道の反対側の博物館まで、まっすぐな腰曲輪となっています。

②城山へとのびる斜面の道
楽なのはいいけど、城跡でコンクリート車道は風情が・・・
なんて思っていると、脇に斜面を上がる細道が。
GPSのログには、私がそんな引力に負けた痕跡がバッチリ残ってます


途中、斜面が削られた絶壁になっている場所があります。
これが、敵の侵入を防ぐために削られた切岸です。
岡本城でも、周囲を削って防御力を上げていました。
里見流築城術なのかもしれません。

③模擬天守(八犬伝博物館)
ぐるっと回り込んで上がった所にあるのが模擬天守です。
ここに来る人の99.99%は、ここがお目当てだと思います。
天守は八犬伝博物館で、その名の通り南総里見八犬伝の博物館です。
江戸時代のSF小説に興味津々ではありますが、まだ読んでいません。
きっと私が何となく書きたいのも、こんなジャンルなんだと思います。

③現在地の図 拡大表示
館山城には図があまり無いので、何でも手当たり次第にパクります。
公園の案内図とは方位も記述も異なります。
色々な視点で見ることで、得られる理解も幅を持ちます。
城山には八犬伝博物館、千畳敷には日本庭園・茶室と万葉の小径。
御厨は案内図と同じく梅園ですが、新屋敷は孔雀園と記されています。
八遺臣の墓の先には「陣屋跡」の文字も。
ここの陣屋は館山藩の陣屋で、稲葉氏によるものです。
先に書いてしまうと、名残も何も残っていませんが・・・

④城山からの眺め
天守の西側からは、館山湾が一望出来ます。
元々の築城目的が、後北条家の水軍対策と城下町建設でした。
東京湾の出入口に位置する港町は、さぞ栄えたことでしょう。

⑤堀切
城山から千畳敷へ向かう途中、切り通しの階段があります。
ここは堀切だったとされます。
今ではどこからでも登れる城山ですが、ここは城山の南尾根に当たります。
ゆったり登れないよう、この堀切で進路を1つ消したんですね!

⑥千畳敷(万葉の小径)
城山の南側にある広い場所が、千畳敷だった所です。
曲輪の面影といえば、広い平坦地であるというだけですが


⑦南西尾根の入口
城跡らしさを求めて来た私。
そろそろ禁断症状が出てくる頃です。
訪ねる前に見た等高線では、歩けそうな尾根が2本ありました。
その内の1本が、南西側の尾根です。
やんわり入って欲しく無さ気な柵を越えてレッツ・ダイブ!

⑦南西尾根
まぁこうなりますね

上から見て、尾根の右脇に道らしき形跡はありました。
こちら側にも城内と行き来する道はあったようです。

⑧梅園(御厨)
城山の南には、南西と南東の尾根に挟まれた腰曲輪群があります。
ここは御厨と呼ばれ、里見義康の居館があったと考えられています。
地形は西から北、東と山に囲まれ南側に開けた殿谷戸そのもの。
陽当たり良好で、生活の場としては超優良物件です。

⑨南東の尾根
続いて南東側の尾根です。
こちら側にはちゃんとした道があります。
この道の途中に堀切があるのですが・・・
なぜか気付かずに通り過ぎてしまいました。
一生の不覚・・・


⑨八遺臣の墓
南東尾根の道を下った所に、八遺臣の墓があります。
何となくこっそり弔った感じにも見えますが・・・
若くして亡くなったお殿様に殉死した家臣がここに眠っています。
改易されたお殿様は、幕府にとっては罪人。
そういう意味で、正々堂々とお墓を建てられなかったんですね。

⑩削られた尾根
八遺臣の墓のすぐ下は、尾根がザックリ削られ断崖となっています。

⑪熊ノ山
城の南側にある絶壁に囲まれた山が熊ノ山です。
出城だったようで、鹿島堀の終点もこの辺りでした。

⑫鹿島堀
かつては館山城の東側を外堀が巡っていました。
それが、常陸国鹿島郡領民により普請された鹿島堀です。
館山城が破却された際、鹿島堀の大部分は埋められてしまいました。
現在、堀の一部がココにだけ残っています。

⑬新屋敷
南東の鹿島堀から城山に戻り、今度は東側の新屋敷という曲輪へ。
駐車場側では「BBQ園」、千畳敷側からは「孔雀園」の案内があります。
色んな名前で呼ばれていますが、城キチ的には「新屋敷」です。
名前の由来を示すものは何もありませんが、旧に対する新かと。
かなり広いので、旧の時にも曲輪として使われていたでしょう。
ちなみに孔雀さんの姿は確認出来ず、檻は資材置き場と化していました。

⑭新屋敷側の切通し
最後に、入口から振り返った新屋敷へと通じる道です。
館山城の大手はどこだったんだろう?というのが素朴な疑問でした。
最初に通った車道は、傾斜といい経路といい絶対ナシ。
だとすると、この道か南東の細道かになりそうです。
南東の細道は城の規模に見合うものではありません。
ここから三の丸的な新屋敷→二の丸的な千畳敷→本丸的な城山?
・・・だったのかもしれません。
◆歴史◆
1580年頃、里見義頼により築かれたとされます。
家督争いを制した里見義頼により築かれました。
館山は平安時代には平貞政が居館を築いていた独立丘陵でした。
その後も様々な領主が館を築いてきた地とされます。
里見義頼は北条氏政の支援を得て家督争いを制しましたが・・・
その直後に築いた館山城は、後北条家の水軍に備えたものでした。
里見義頼の代には完成せず、子の里見義康の代で完成しました。
1591年、里見義康が本拠としました。
里見義康は里見義頼の嫡男です。
1587年父の没後も、しばらくは岡本城を居城としていました。
1590年の小田原征伐後には領地が大幅に減らされました。
この時の石高は4万石ですが・・・
これは家臣からの自己申告である指出検地の合計です。
1597年に太閤検地が実施され確定した石高は9万2000石でした。
居城を移したのは、それだけ築城に長い年月を費やしたからでしょう。
城は石垣ではなく、周囲の斜面を削った断崖に囲まれています。
この辺の基本構造は岡本城と同じです。
1601年頃、鹿島堀が普請されました。
里見義康は関ヶ原の戦で宇都宮に出陣し、上杉軍の南下を防ぎました。
この功により、常陸国鹿島郡3万石が与えられました。
城域拡張の際、鹿島郡の領民より普請されたのが鹿島堀です。
1614年、廃城となりました。
1614年、大久保忠隣に連座し里見忠義が改易されました。
里見忠義は、大久保忠隣の孫娘を正室に迎えていました。
大久保忠隣は徳川秀忠のもとで老中を務めた超大物です。
1613年、大久保長安事件が起きました。
大久保長安は、超有力で大久保忠隣が自分の姓を与えた人物です。
徳川秀忠は、大久保忠隣と親しい者が多い事を恐れていました。
幕府内で権力争いをしていた本多正信の策略という噂もあります。
里見忠義は伯耆国倉吉へ配流され、29歳で没しています。
この時に殉死した家臣の墓が、館山城の南麓にあります。
館山城は廃城となり、破却されています。
所在地:千葉県館山市館山 GPSログダウンロードページ
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コメント
無題
クジャクは他の施設に移されたようで、その跡地がバーベキュー場になったそうです。
2021/12/15 06:22 by 御城学 URL 編集
Re:無題
里見さんが居なくなってからそんな事があったんですね!
お城はお城でなくなってからも色々と歴史が刻まれるんだとつくづく思います。
2021/12/15 17:42 by なぽ URL 編集