2021/12/13
岡本城/千葉県南房総市
岡本城は、戦国時代に里見義頼が居城としていたお城です。訪問日は2015年2月21日と2021年12月11日です。

岡本城は東西600m、南北300mの規模でした。
大堀切の西側が「北手城」、東側が「南手城」とされます。
城の主要部は北手城で、南手城は聖山とも呼ばれています。
私が歩き回った範囲を計測すると、東西470m、南北は200m。
西側の平地も城域で、「要害」と呼ばれる居住区だったそうです。
そう知ったのは、これを書いてる時です

あと南北の足りない分は、おそらく南側だと思われます。
何かの絵図で、国道の反対側も城の一部として描かれていました。
そこにある神社にお参りしようと思いましたが・・・
道がわからず断念しました。

①切通し
岡本城南部をブチ抜いている国道の切通しです。
絵図でもここは道として描かれており、昔からこうだったようです。
里見義弘が改修した際、城の周囲を削って断崖にしたそうです。
その時にここも削られたのかもしれません。

①案内
国道から登城口へ至る細道の入口に、この案内があります。
案内のある城跡は、世間的にはまぁメジャーな部類になるんでしょうね。

②登城口
トンネルの脇に山へ入るコンクリートの階段があります。
ここが岡本城の登城口です。
ここにも案内があります。

②登城路
登城口から主郭までは、白セメントの道で歩きやすいです。

③南斜面にある曲輪
登城路の周りは、どこもかしこも枇杷畑です。
途中で登城路から逸れる道があり、その奥には広い平坦地がありました。
現状が畑なのでどこまで旧状が残っているのか疑問ですが・・・
素直に見れば、主郭直下のかなり大きな曲輪です。

④主郭(東隅から)
登城口から3分で主郭に着きます。
現地ではもっと時間がかかったように思いましたが・・・
超久しぶりの城巡りで、体が鈍っていたようです

そんな体で更に5か所回ったので、翌日は体が鉛みたいになりました。

④説明板
主郭にある説明板です。
説明板のある城跡、素敵です

バッチリ、里見のお殿様のお城でしたヾ(*´∀`*)ノ

④城址碑
西側の奥にある城址碑です。
ちゃんと「岡本城址」と刻まれています。

⑤小さな堀切と土橋
城址碑の背後に、奥へ続く道があります。
道があると歩きたくなるのが人情というもの。
進んでみると、地面が少し窪んでいる所がありました。
両脇がえぐられ、真ん中に細い通路があるのは土橋さんですね!

⑥西端からの眺め
このお城が築かれた理由が、後北条家の水軍対策でした。
東京湾の出口を抑え西側の海も監視出来る。
とても機能的なお城だったようです。

⑦主郭東側の階段
西側の先端部から戻り、今度は反対側の東へ。
主郭は草むらで終わり、そこから先が無いように見えます。
しかし、よーっく探すと、東側へ下る階段が見つかります。
一度来た事があるので見つかりましたが、初めてだと見落としたかもです。

⑦大堀切
断崖を階段で下りた所に、大きな堀切があります

この堀切で城内が東西に分断されています。
いつものように堀切の奥へ進むと、下りていく道がありました。
なので通路を通すための切通しかと思いましたが・・・
改めて見ると、主郭へつながる細尾根を断ち切っています。

⑦反対側から見た大堀切
物事を反対側からも見るクセがあり・・・
いつも堀切の底を突き抜けて反対側からも写真を撮ってます。
こうして見ると上の写真とは別の堀切に見えます。
ひと粒で二度美味しいデス


⑦堀切脇の曲輪
堀切のある所はたいていは尾根ですが・・・
ここは断ち切った尾根の脇にこんなに広い平地があります。
主郭を守る二の丸的な所だったんでしょうか。
そんな曲輪が南側にもありました。
さすがは里見のお殿様のお城です。

⑧東側へ続く道
城域はまだまだ続きます。
土が削られ道がありますが、往時がどうだったかは?です。

⑨道沿いの曲輪
岡本城はとにかく曲輪が多いです。
現状はそのどこもかしこもが枇杷畑ですが・・・
旧状もこうだったのか、畑としてこうなったのか。
今では知る人もないのでしょう。

⑩東端のヘアピン
城内を歩いていても、土塁や堀などは見られません。
本当に城跡なのかと疑いたくなる程、ただの枇杷畑が続きます。
大規模なお城だったので、その曲輪が畑になっている!
そう思いながら淡々と歩きました。
道は下っていくばかりで、城域もここまでか?と思いましたが・・・

⑪桝ヶ池
もうここで引き返そうと、ヘアピンの先端まで来ました。
その時ビビッと感じるものがあり、少しだけ藪を掻き分けました。
すると、奥に大きな水たまりがありました。
これが、どんな時にも枯れなかったという桝ヶ池のようです。
山城の生命線である水場がここにある。
岡本城が東西に長い理由は、これだったのかもしれません。

⑫気になる跡
さて、東のかなり先端まで見たことだし次行こう!
そう思ってUターンしました。
しかし、どうしても気になる所がありました。
行きは「どうせ何も無いだろう」と通り過ぎましたが・・・
同じ場所を2度通ると、どうしても白なぽと黒なぽが喧嘩を始めます。
正義の味方と言えば白い方ですが、勝った試しがありません。

⑫真ん中のピーク
よじ登った小さなピークは、手付かずの藪でした。
こんな光景を何度も見ては「もう進めない」なんて思いましたが・・・
そのたびに黒なぽが勝利すること3度。
マジでもう無理!という所まで進みました。
ここは細い平坦地が続く感じで、何とか小屋程度は建ちそうです。
途中、崩れ落ちた小さな石宮がありました。
「聖山」と呼ばれていたのは、もしかしたらココだったのでしょうか?
◆歴史◆
岡本通輔により築かれました。
岡本城は、岡本安泰の父・岡本通輔により築かれたと伝わります。
岡本氏は古河公方の家臣でしたが、里見義通に従い安房に移住。
そこで里見義通の弟を養子に迎え、岡本通輔と名乗りました。
築城時期は不明です。
1572年、里見義弘により修築されました。
後北条家と対立した里見義弘が、海防の要地として修築しました。
城の周囲を削り取り、断崖に囲まれた城に仕上げたと伝わります。
城には廃嫡されていた里見義頼が入れられました。
1577年、北条氏政と停戦しました。
上総の地を巡り、北条氏政と里見義弘は激しく争っていました。
しかし、里見氏の後ろ盾だった上杉謙信が北条氏政と同盟。
そこで頼った武田勝頼も、長篠の戦で織田軍に大敗を喫しました。
日々状況が悪化する中で、里見義弘は北条氏政と和睦しました。
しかし上総の一部を失い、里見義弘は「遺恨深重」と嘆いたそうです。
この和睦は「房相一和」と呼ばれています。
この時、北条氏政の娘が里見義頼の正室となりました。
1578年、里見義弘が急死しました。
後北条家と和睦した翌年、里見義弘が久留里城で急死しました。
すると、里見家中で家督争いが始まりました。
里見義頼は、なかなか後継ぎの生まれなかった里見義弘の養嗣子でした。
しかし、里見義弘に実子・梅王丸が生まれ、廃嫡された経緯があります。
里見家中は安房の里見義頼派と上総の梅王丸派に分裂。
安房の里見家臣は、里見義弘の葬儀への参列を許されなかったそうです。
両者の争いは、北条氏政の支援を得た里見義頼が優勢でした。
1580年、淳泰(梅王丸)が幽閉されました。
説明板に書かれている1579年は、家督争いの始まった年です。
里見義頼は2年で上総を平定し、佐貫城で梅王丸を捕らえました。
佐貫城を守っていた加藤信景は、開城条件に梅王丸の助命を要求。
その約束通り梅王丸は出家させられ、岡本城の聖山に幽閉されました。
聖山は、岡本城の東半分を指します。
淳泰は後に館山城下の泉慶院へ移り、江戸時代初頭まで生きました。
1587年、里見義頼が没しました。
里見義頼が岡本城で没しました。
家督は嫡男の里見義康が継ぎました。
里見義康は豊臣秀吉に従い、安房、上総、下総の一部を安堵されています。
1588年、城内で火災が発生しました。
どのような規模だったのかは?ですが・・・
この火災の責任を問われ、岡本頼元が追放されました。
岡本頼元は、主に城を譲った岡本安泰の子です。
後に許されて帰参し、100石の足軽小頭となっています。
1590年、上総、下総の領地を失いました。
里見義康は他の近隣大名とは一線を画し、豊臣秀吉に従いました。
しかし、独自に三浦半島へ侵攻して禁制を発しました。
匿っていた小弓公方を鎌倉に復帰させる意図だったとされますが・・・
これが、私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと考えられています。
改易は免れたものの、領地を大幅に減らしました。
1591年、廃城になりました。
里見義康が、本拠を館山城に移しました。
岡本城は、この時に廃城になったとされます。
所在地:千葉県南房総市富浦町豊岡 GPSログダウンロードページ
千葉県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント