2021/04/30
前ヶ崎城/千葉県流山市
前ヶ崎城も高城氏の城でした。訪問日は2021年4月11日です。

小金城を見に来たついでで、すぐ近くのココにも来ました。
①の外側に、何の表示も無い駐車場があります。
ラーメン屋さんには専用の駐車場があるので、多分停めてokです。

①公園入口
城跡への入口は、先端部の交差点付近にあります。

①城跡の西側
城跡の外側はこんな感じで、湿地に突き出した舌状台地だったようです。

①説明板を拡大表示
入口の階段前に、とても素晴らしい説明板があります

全体図と現存する主郭部の図、そして詳しい説明文。
こういうのがあちこちにあればいいなぁという充実ぶりです。

②公園の階段
主郭へと上がる階段です。
往時の虎口ではあり得ない上がり易さです。

②土塁
階段を上がると、両脇が高くなっています。
ここは先端部を削った通路なので、土塁が山のように聳えます。

③北西の四阿から
城内に入ると、しっかりと土塁で囲まれた曲輪になっています。
周囲はすっかり市街化されていますが、ここだけは別世界のようです。

④虎口
上がってきて真正面の奥に階段が見えます。
そのすぐ左脇の土塁が少しだけ凹んでいます。
説明板の図では、階段の所でなくこっちが虎口です。
ただ、下りる道などは無いので、橋があったのかもしれません。

⑤櫓台
階段の右脇には、こんもりした土の高台があります。
櫓台ですが、位置が何とも微妙な感じです。
ここからよく見えるのは、城の北西側だけです。
すぐ南西に小金城もあるので、その支援用でしょうか。

⑤公園の出入口
曲輪の土塁を貫通する通路です。
すぐ左脇に虎口があるので、ここを崩したのでしょうか。
現代風の虎口なので、防御性よりも通り易さが重視されています。

⑥堀切
階段を下りると、左右に堀切が走っています。
城跡的に犬走りに見えるのが、本来の堀切の底のようです。
その先が低くなっているのは、宅地造成で削られたからでしょう。

⑦堀切
堀切を左へ進むと、車道脇に出ます。
ここからアスファルトの道へ出ることが出来ます。

⑧虎口?
ただ、私はアスファルトの道に下りた後、すぐに戻りました。
というのも、堀切端から城側を見ると、こんな感じに見えたからです。
道無き山城ばかり訪ね歩いた眼には、これが立派な道に見えました。
何となく「く」の字形に見えます、よね?

⑨突き出る土塁
見える人には見えるっぽい道の真正面には、土塁が突き出ています。
この土塁、北側から出入口である虎口を隠しているように見えます。
説明板の図では土塁とあるだけで、ここが虎口とは書かれていませんが


⑨「く」の字の道を上がった所
見えちゃう人には見える道を上がった所です。
ここの土塁が凹んでいるのは、ただの偶然ではないと思うのですが・・・
◆歴史◆
高城氏の城でした。

前ヶ崎城の築城年や城主などは、詳しい事はわかっていません。
ただ、高城氏の城だったのは確かなようです。
・・・というのも、高城氏の本拠地の北2km以内にあります。
そこで、これらの城の出来事を年代を追って調べてみました。
すると、
1460年頃:栗ケ沢城築城(高城氏本拠)
1462年頃:根木内城築城(高城氏本拠)
1478年:前ヶ崎城が太田道灌に攻められ落城
1521年:名都借城で高城氏家臣が討死
1527年:名都借城が古河公方軍に攻められる
1537年:小金城築城(高城氏本拠)
といった感じです。
上の地図での配置を見ると、高城氏本拠の北側に前ヶ崎城があります。
そして、その間には川が1本流れています。
前ヶ崎城には、この川を遡って攻めてくる敵を防ぐ役割があったようです。
では、高城氏は誰と戦っていたのでしょうか。
1478年頃の情勢
長尾景春の乱があった年代です。
千葉家は古河公方を支える大名で、長尾景春に味方していました。
その古河公方が上杉家と和睦しましたが・・・
この時、1450年代に追い出した千葉宗家を復帰させる話が出ました。
当時下総を支配していたのは、千葉家を乗っ取った庶流出身者でした。
そのため、千葉家は長尾景春側に回り、抵抗し続けたのでした。
上杉軍のスーパースター・太田道灌により千葉家は本拠も陥落。
追い出した千葉宗家が復帰することとなりましたが・・・
下総の国人達が受け入れず、結局千葉宗家は戻ることが出来ませんでした。
1521年頃の情勢
上総の真里谷氏が勢力を増し、南から千葉家を攻めてきました。
1518年頃に千葉家筆頭家老・原氏の本拠・小弓城が奪われています。
真里谷信清は古河公方の内紛を利用し、出家していた次男を担ぎます。
そして小弓城に入れて還俗させ、小弓公方・足利義明を擁立します。
古河公方家は父・長男・次男の三つ巴となり、さらに混乱します。
1521年、千葉家としては古河公方長男に味方していました。
この年に名都仮城で戦があり、高城家臣が討死しています。
状況的には小弓公方方と古河公方との局地戦と思われますが・・・
その戦が高城氏本拠の古河公方寄りであった事がちょっと?です。
もしかしたら、勢い盛んな小弓公方寄りの高城家臣が居たのかもしれません。
1527年頃の情勢
小弓公方が北条氏綱と和睦した年です。
この頃の千葉家は後北条家の力を借りていたようです。
そのため、この和睦により小弓公方の配下にされています。
一方の敵と和睦した小弓公方は、古河公方との戦に専念。
新たに配下に加えた千葉家に、その先陣を務めさせたと考えられます。
小弓公方にとっての千葉家は、元々は攻略対象でしたからね・・・
そのため、前ヶ崎城が旧主・古河公方に攻められたものと思われます。
1537年頃の情勢
1534年、真里谷家のカリスマ・真里谷信清が世を去りました。
すると、後継者に指名された長庶子と嫡男で家督争いが始まります。
傀儡だった小弓公方がこの争いに介入し、真里谷家を支配下に収めます。
この混乱に乗じて千葉家は小弓公方からの離脱を試みますが・・・
小弓公方に攻められ降伏し、小弓公方陣営に引き戻されます。
この頃、高城胤吉が小金城を築きました。
古河公方の攻撃に備えると言えば、大規模な築城もokが出そうです。
小金城の落成を千葉昌胤は盛大に祝い、小弓公方の国府台城も訪れました。
年末に小弓公方が後北条家と決別すると、千葉家は小弓公方から離反。
第一次国府台合戦で小弓公方が討死し、千葉家は勢力を回復します。
その後は?です
その後、高城氏の城が攻められたのは、1560年、1566年と1590年です。
前2回は上杉謙信の関東遠征で、千葉家にも大きな被害が出ました。
1590年は豊臣秀吉による後北条家攻めで、小金城も包囲され開城しています。
小金城包囲となると、前ヶ崎城や根木内城が占領されたかもしれませんが・・・
その時の様子がどうだったのかが?です

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