2021/04/25
小金城/千葉県松戸市
小金城は原家重臣・高城氏の城で、とても大規模でした。訪問日は2021年4月11日です。
スギ花粉が収まり、ようやく晴れた週末。
久しぶりに城跡を訪ねました。
Google Mapの経路検索では自宅からバイクで15分。
自転車で行こうかとも思いましたが、やめて正解でした^^;
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城址碑のある場所の地図 説明板を拡大表示
まずは街角にある城址碑と説明板です。
目的地である城址公園からはちょっと離れています。
しかも、公園とは反対側の角に城址碑があります。
なんでこんな離れた場所にあるんだろう?と思ってましたが・・・
後で想定される城域を調べたら、その中にありました。
それでも端っこではなく、本城はここ曲輪の1つ南側でした。
それくらい大規模なお城でした。

▲2015年の9月
実はココには5年半前にも来たことがあります。
いざ書こうと思ったら何も思い出せず

近所ということもあり、再度訪ねました。
ちなみに、前回(2015年9月)訪ねた時の城址碑周辺の様子です。
前が花壇になっており、石碑がスッポリ隠れてしまいます

それくらい、ココが城跡であるという雰囲気はゼロです。

①大谷口歴史公園入口
続いて、遺構が良く残っている城址公園です。
ストビュー見た時は隣の駐車場に停められると思いましたが・・・
いざ訪ねてみると月極駐車場で、無断駐車は即通報とありました


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広い城域の北端の曲輪が、遺構の見られる公園となっています。

①公園入口から右側へ
真正面に上がる階段ありますが、私は天邪鬼です(`・ω・´)v
まずは入口から右側の道に進みました。

②虎口と思って突撃した藪
なぜなら、案内図ではこちら側に虎口が描かれていたからです。
城塁側を見ながら歩いていると、それっぽい所が!
もう、道とか無視してバキバキと突き進むのでありました

確かにそれっぽさはありましたが、上がることは出来ず・・・
通りすがりの散歩犬に吠えられつつ、人の道へと戻りました。

③虎口へ上がる階段
案内図に描かれている虎口は、この上にあります。
そりゃそうですよね、ちゃんと整備された公園なんですから

階段脇の案内に、ちゃんと虎口と書かれていました。

④金杉口 説明板・図
階段を上がった所に、木の門があります。
ここが金杉口の虎口跡です。
今では虎口らしさはあまりありませんが・・・
虎口といいながら、説明板の図では曲輪に上がれそうに見えません。
説明文には堀の外側を進み大勝院裏から城内へ入ったと書かれています。
寄せ手は常に上の曲輪から狙い撃ちされる状況に置かれる訳ですネ!

⑤曲輪に上がる階段
でも、現在は城塁をまっすぐ上がる階段が付けられています


⑥階段上から見た曲輪内部
階段の上が、小金城で最も遺構が残っている曲輪です。
階段は、土塁を跨ぐ形で付けられています。
⑤~⑥はGPSの軌跡が太くなりましたが、階段は1本です。

⑥土塁
公園になった曲輪では、これだけしっかりとした土塁が見られます


⑦土塁の説明板
曲輪の東側には、土塁の説明板と大きな石碑があります。
説明板によると、ここ以外にも土塁があるようです。
奥の大きな石碑には、航空写真に城域を示す線が入れられています。
この写真を見ながら、下の地図に城域を示す線を入れてみました。
かなり広いので、他の大きなお城と比べてみたくなり・・・
佐倉城の外堀を囲んだポリゴン作って重ねてみたら、ほぼ同じ広さでした!

⑧公園東側の道
地図では南側から曲輪に入れそうな道が描かれています。
おそらくは、こちら側にも虎口があったように思われます。
しかし、なぜか城址公園には入れないよう柵で仕切られています。
ご近所様から何かしらのクレームでもあったのでしょうか・・・

⑨反対側に下りる階段
上がってきたのとは反対側に、帯曲輪状の細長い平地が見えます。
これは畝堀の跡です。

⑩畝堀 説明板
階段を下りた所にこの説明板があります。

⑩畝堀
説明板の先には、柵で囲まれた堀があります。
説明板ではしっかり畝畝していますが・・・
埋め戻されて、のっぺりした堀に見えます。
私はこれでも萌えますけど


⑪金杉口から続く道
⑥→⑤の階段を下ると、金杉口からの道に戻ります。
数十メートル先に、今度は障子堀の跡があります。

⑪障子堀 説明板
説明板の写真ではしっかりとした障子堀ですが・・・
ここも埋め戻され、ただの細長い窪みになっています

④の説明板にある、道の内側の堀がこれです。

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続いて、少し南東にある達磨口です。
先ほどの公園入口から歩いて5分程の所にあります。

⑫達磨口
公園の入口から道なりに南下すると、木がこんもりした所があります。
ここが達磨口です。

⑬達磨口の入口 説明板・図
フェンスで囲まれていますが、少しだけ中に入ることが出来ます。
その入口に、城全体の図が載った説明板があります。

⑭達磨口
説明板の所から上がった所です。
舌状台地の先端部が、櫓台状に高くなっています。
城内へは台地の付け根方向に進むはずですが・・・
そちら側はフェンスで囲まれ、進むことが出来ません。
それでも、起伏に富んだ地形が城跡らしさを感じさせてくれます。
◆歴史◆
千葉の歴史は複雑過ぎて、概要把握するだけで10日以上かかりました。
結局のところそれでも長くなるので、周辺事情は省きました

高城(たかぎ)氏の城でした。
高城氏は千葉家筆頭家老・原家の重臣を務めた一族です。
出自不詳ですが、九州千葉氏が没落し戻って来たという説があります。
千葉家の力が弱まると、後北条家直属の家臣となっています。
1537年、高城胤吉により小金城が築かれました。
高城氏のそれまでの本拠地は、約1.5k真東にあった根木内城でした。
現在は国道6号線で分断され宅地化が進んでいますが、大規模なお城でした。
点で見ると1.5km離れていますが、城域で見るとほぼ隣接しています。
新たに城を築いたというよりは、根木内城を大幅に拡張した感じです。
盛大に行われた落成式には、千葉家当主・千葉昌胤も訪ねています。
高城胤吉は原氏の家臣なので陪臣ですが、千葉昌胤の妹を娶っていました。
そのため、千葉昌胤は義理の兄でもあります。
落成式のお祝いついでに、2人で小弓公方の国府台城も視察しています。
広大な領地といい縁組といい、とても優れた武将だったようですね!
そしてこの年の12月、千葉昌胤が再び小弓公方から離反しました。
この時、千葉家中で小弓公方寄りだった臼井城を制圧したようです。
これにより、小弓公方が北を目指すには国府台ルートしか無くなりました。
1538年、第一次国府台合戦

小弓公方は後北条家との同盟を破棄し、国府台城に兵を進めました。
足利義明は先陣切って突撃した挙句、討ち取られあっさり敗戦。
この機を逃さず、千葉軍は小弓城を攻め落として18年ぶりに奪還しました。

戦後、国府台城一帯は高城胤吉の領地となりました。
高城胤吉は太白川(江戸川)下流域を支配し、付近の水運を掌握。
葛西城と並び、後北条家にとって房総半島侵攻の拠点となりました。
1561年、小金城が古河公方の仮御所となりました。
長尾景虎あらため上杉政虎は、足利藤氏を古河公方に擁立しました。
そのため、後北条家推しの足利義氏は小金城を居場所としました。
翌年後北条軍が足利藤氏を捕らえますが、足利義氏の古河入りを認めず。
1570年まで、関宿城や葛西城、小田原城を転々とすることになります。
1566年、上杉軍に包囲されました。
越後の上杉輝虎が、この年も関東に出陣しました。
ターゲットの下野の佐野氏、常陸の小田氏らを攻め降伏させました。
さらに下総北西部へ進軍し、高城氏の船橋一帯を掌握。
海上輸送による物資調達が狙いだったと考えられています。
そして、同盟関係にある里見氏からの要請で、千葉家も攻めました。
この時、本佐倉城や臼井城、そして小金城も一時包囲されました。
しかし、いずれの城も攻め落とすことは出来ず、約1か月で撤退しました。
1590年、豊臣軍の浅野長政隊に包囲されました。
豊臣秀吉が後北条家を攻め、小田原城を包囲しました。
この時、高城胤則は小田原城に籠城しており、小金城は城主不在でした。
浅野軍は本佐倉城、臼井城などを陥落させています。
高城胤則は小金城を守る家臣に、浅野軍に城を明け渡すよう命じました。
これにより小金城は開城され、浅野軍は城を焼き払いました。
徳川家康の五男・武田信吉が城主となります。
小田原征伐後、関東に移された徳川家康の子が3万石の城主となります。
この時に松平姓に復姓しますが、まだ6、7歳の幼子でした。
しかし、わずか3年で佐倉10万石へ移り、小金城は廃城となりました。
所在地:千葉県松戸市大谷口 GPSログダウンロードページ
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